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南北朝時代中期末~後期
大分県玖珠郡玖珠町大字山田字中山田2666 森宗一邸
凝灰岩製
国道から南側に100メートル程入った、森宗一邸の入口、建物の壁際に新しく1段を設け、その上に2基の宝篋印塔残欠が並べられている。元は、道路を挟んだ直ぐ前の畑地のあぜ道に有ったのを、近年移設したものという。その内、右側の割合保存のいい大型塔について述べる。





塔高;129.5センチ
基礎側面下部幅;57.0 基礎側面上部幅;59.5
基礎側面高;29.0
基礎上面幅;約50.0 基礎高;33.5
塔身幅;35.5 塔身正面上部幅;34.0 塔身高;35.5
笠下部幅;43.0 軒下部幅;57.0 軒上部幅;57.5
軒中央厚;12.0
軒端厚;11.5
笠上面幅;30.0 笠高;35.0
塔は、全体に摩耗や破損部が多い。
基礎は、下部を土台石にセメントで接着してある。全体に、摩耗や破損が激しい。
基礎側面幅は、下部幅より上部幅を2.5センチ大きくする。側面は、4方共に2個の方形に近い枠を平底に彫り込んで2区の枠を作り、その枠内に更に方形枠を平底に彫り込み、中に格狭間を平底に彫り込む。方形枠は、2重ともに、直線が大分歪んでいる。格狭間は、元大原神社宝篋印塔の格狭間の形から退行して団扇形になっている。上部中央の茨を鋭く尖らせ、左右の小曲線と茨は、通常とは上下逆にして片側3個の曲線を内側に凹ませ、上部外側に3個の茨を付ける。両側の曲線は、力なく膨らみ、細く小さな脚部につなぐ。4面8個の格狭間は、それぞれの形が異なっており、小曲線、茨、両側の曲線、脚部などの形が揃っていない。
基礎上面は、2段を造り出す。2段ともに、破損、摩耗が激しく、原形を損なっている。特に2段目は、上面が大きく削れている。上面には、彫り込まれていた塔身を受ける大入れの枘穴がわずかな痕跡として残っている。
塔身は、下部幅35.5センチに対して露出している高さが高35.5センチの同寸になっている。ただ、基礎上面には、大入れの枘穴の痕跡が残り、その枘穴に下部を大入れする分だけ、元は幅より高さが幾分小さく露出していたものと思われる。立方体に近いが、4方角の縦線は直線に加工できておらず、特に西面(種子「キリーク」の面)の左側線は、下辺角から上辺角へ面の内側斜めに1.0センチ程狭くなっているのが計測される。笠下面の枘穴は、深さ1.5センチで、塔身上部の枘として挿しこまれている部分を加えると高さは37.0センチになる。四方には、面に対して適度な大きさで、4仏の種子「バーイ」「サ」「キリーク」「バク」を薬研彫するが、何故か面の中央からは外れて偏った位置に配置されている。薬研彫の文字内には、墨入れの痕跡が確認できる。4仏配置は、岩室宝篋印塔と同じになっている。
笠は、軒下2段、軒上4段を造り出す。軒厚は、笠高の3分の1程あり、笠の幅、高さに比べて、随分厚くする。軒幅は、下辺より上辺を0.5センチ程大きくする。また、軒の下辺と軒下1段目の両端に少しの反りを持たせている。上下の造出し段の内、軒上1段目を高くし、他段は似通った高さにする。最上段は、幅を大きく取り、位置が、笠の中心線より片側に1.5センチほどずれている。現在の正面から見れば、右側(向かって左側)に偏っている。
笠隅飾は、4個とも上部を欠損しているが、残存部から、元の形状は、側面無地の1弧とわかる。先行する元大原神社宝篋印塔隅飾は、軒と隅飾の区分を作らない延作りだが、本塔では、軒との区分を付け、軒端から0.75センチ程内側に入れて造り出す。角の線は、垂直に近く立ち上がっていたようである。下部幅は、広くして、高さは笠上辺にほぼ合っていたと思われる。4個の隅飾は、同様の形ながら、大きさは揃っていない。笠下面は、塔身上部を大入れにする方形枘穴を幅約36.0センチ、深さ1.5センチ彫り込む。
笠上面の相輪下部を受ける枘穴は、特殊な加工を施す。上面径約22.0センチから深さ3.0
センチの所まで浅鉢状に彫り込み、そこから更に径15.5センチで上辺から13センチ深さまで円孔枘穴を彫り込む。更に、上面各辺4方の中央付近には、4段目側面から枘穴までU字溝を通している。4方のU字溝は、4方とも幅、深さは一定せず、雑な仕上げにしている。
相輪は、9輪の下2輪を残してその上を欠失している。相輪には、露盤、伏鉢は無い。相輪下部は、断面四角で九州様式の請花部である。笠隅飾と同じ隅飾1弧で、平断面は、正方形に加工できておらず歪みがある。側面無地で、側面の中央、高さ約3分の1の所で左右を合せる。上部が摩耗しているので明瞭ではないが、左右の幅や、曲線の形にはばらつきが見られる。隅飾の下面は、膨らみを持たせた特殊な形をしている。隅飾の側面下端中央から両隅下端まで反った曲線でつなぎ、そこから枘まで下面全体に膨らみを持たせて、最下部の丸枘につなぐ。この下面の膨らみは、笠上面に彫り込まれた浅鉢状を加えた丸枘穴の構造に合わせて加工されたものではないかと思われる。隅飾の側面全体が笠上に露出し、両隅への反り上がり部分は笠上に露出する形での噛合わせになっている。笠上面のU字溝は、この噛み合わせの構造と関連が有りそうに思えるが、その意図はよくわからない。下端の丸枘は、先を丸め、枘穴より径を4センチ小さく、深さ5.5センチ程短く造り出す。刹は、断面丸で上部が折れて欠失しているが、3輪分の高さで残っている。1輪目は半分、2輪目はその1部の痕跡が残るだけで3輪目は表面が欠けて確認できない。輪は、浅目の彫り出しで、幅を薄くする。輪間は輪幅の半分ほど開けている。相輪は、上部が折れて失われているが、刹輪の断面は丸で、請花部側面幅と刹下部径差5.5センチは岩室宝篋印塔の2.0センチ差より大きく、元大原神社宝篋印塔相輪の6.0差に近い。
塔形は、同規模の規格、基礎側面幅の下辺が上辺より小さくなっているところ、基礎側面2区と団扇状の格狭間の形、四仏種子の組み合わせ、塔身を上下の枘穴に大入れする構造、軒の厚さ、笠隅飾1弧、相輪請花部隅飾1弧など隅飾の形、各部の成形加工に歪みがあるところなどから、全体に岩室宝篋印塔との相似が見られ、同一石工の作であると考えられる。
格狭間は、上辺の小曲線の茨がまだ残り、四仏種子は、面に対して適度の大きさである。相輪請花部幅と刹径に適度の差を取っており、刹は、断面丸である。これらと、基礎側面の方形輪郭が2重であることも合せて、元大原神社宝篋印塔を手本としたと思われるところが多く有り、造立時期は、岩室宝篋印塔造立の「應安七年甲/刀三月二十/四日」より以前で、それに近い時期の造立であることを示しているように思われる。これらのことから、内山田宝篋印塔は、一乗製作の宝篋印塔を手本にした直系の後継石工によって製作され、また、同一石工作と考えられる岩室宝篋印塔と比べると、細部の彫刻技術は少し劣って不慣れなところがあるように見えるので、その活動の早い時期に造立されたものと思われる。

基礎正面

基礎右側面

基礎左側面拓影













2019.10.30.調査
調査協力;A.I.
参考文献;玖珠町史
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