1374.03.24. 應安七年三月二十四日
大分県玖珠郡玖珠町大字岩室56―1 穴井清敏氏宅
凝灰岩製



塔は、道路よりも少し高い位置にある穴井清敏氏宅の塀に囲まれた庭内に建っている。元は、現在道路になっている家前の1段下に有った岩山上から移したものという。
第1重基壇幅;102.0センチ 第1重基壇高;21.5
第2重基壇幅;80.0 第2重基壇高;21.5
第3重基壇幅;64.0 第3重基壇高;14.0
塔高;178.5
基礎側面下部幅;56.0 基礎側面上部幅;56.5 基礎側面高;29.0
基礎上部幅;45.0 基礎高;36.5
塔身下部幅;32.5 塔身上部幅;33.0 塔身高;30.5~31.5
笠下部幅;45.0 笠軒幅;56.0 笠上部幅;32.0 笠高;31.5~32.5
請花部下部幅;19.0 請花部上部幅;18.5 請花部側面高;18.0
刹下部径;16.0 1輪下部径;16.5 4輪径;17.5 9輪上部径;16.5
紐帯径;16.5 紐帯高;2.0
請花最大径;18.5 請花高;7.0
宝珠下部径;14.5 宝珠最大径;18.5 火炎宝珠高;19.5
相輪高;79.0
塔は、加工石で周囲を囲った低い土台上に置かれ、3段の基壇上に立つ。移動しているのが確認されているので、3段の基壇が造立当初からのものか断定はできないが、石材に違和感はない。
1段目は、大分県内石塔基壇に多く使用されている長方形角柱4石の組合せ式で各部に破損個所がある。2段と3段はそれぞれ1石で造る。2段と3段の加工成形には、少し歪みが見られる。
大分県内石塔の基壇は、2段、1段、基壇無しが多く見られる。現在までに確認できている3段は、本塔以外には、吉木九重塔(国東市国東町)、実際寺宝篋印塔(国東市安岐町)のわずかに2基に過ぎない。この内、実際寺宝篋印塔は、九州様式相輪請花部を持つ塔である。この他には、当初からのものかは分からないが、元大原神社宝篋印も3段基壇で復元されている。



基礎は、上2段造り出し。側面幅は、下部幅より上部幅が0.5センチ大きい。この差は、当初の設計によるものかは不明。
側面は、4面とも、ほぼ方形の2枠を作り、0.7センチ平底に彫り込む。方形枠の4辺は、直線にならず、歪みが有る。その中に、各1個の格狭間を更に0.4センチ平底に彫り込んでいる。格狭間は、上部の茨を鋭く尖らせている。それに比べて、上辺左右の小曲線の区分は曖昧で、小曲線間をつなぐ茨の尖りは確認できない。上辺から側線に降りる曲線は、肩が張って立ち上がり、左右不均衡な形である。脚部は、幅が小さく、高くする。この格狭間の形は、全国的な視点で見ると、随分退化したもののようにも見受けられるが、大分県内の南北朝時代後期ころの格狭間でみると、一般的な似通った形になっている。
上に2段を造り出す。1段目が左右平行に加工できておらず、そのため、2段とも右と左の高さが異なっている。上面は、塔身幅に合わせて、方形の枘穴を深さ3.5センチ彫り窪める。






塔身は、露出している高さより幅がわずかに広く、立方体に近い形だが、4方角の縦線は直線に加工できておらず、歪みが有る。基礎上面と笠下面の枘穴に、大入れにする。種子「サ」の面では、露出している部分の高さは、右29.5センチ、左30.5センチで、この左右差1.0センチは、笠軒下1段目左右の造出し高さの違いによる。塔身は、上下の枘穴に入っている分まで測ると、36.0センチである。側面4方に「バーイ」「サ」「キリーク」「バク」種子を薬研彫する。薬研彫の文字内には、墨痕が明瞭に残っている。これに先行する元大原神社宝篋印塔の4仏種子「バーイ」「バク」「キリーク」「バン」から「バン」を外して「サ」を入れている。また、「バク」は、南面から本来の北面に方位が変わっている。種子は、元大原神社宝篋印塔に比べると、面に対して大分小さめで、大人しい表現になり、薬研彫の彫り込み面も粗い仕上げになっている。


笠は、下2段、上4段。軒は、笠の高さに比べて随分厚くする。軒下2段は、軒上4段や基礎上2段より薄く造り出し、笠裏が薄く感じられる作りになっている。基礎の2段と同様に、軒下1段目の左右の厚みに歪みが見られる。
笠隅飾は、側面無地の1弧。先行する元大原神社宝篋印塔隅飾は、軒と隅飾の区分を作らない延作りだが、本塔では、軒との区分を付け、軒端から0.25センチ程内側に入れて造り出す。角の線は、軒に接する下部を少し内側に入れた曲線にし、その上の垂直に近く立ち上った線もわずかな曲線を加えている。下部幅は広くして、高さは笠上面にほぼ合せる。4個の隅飾は、形は同様だが、大きさは揃っていない所がある。笠上辺は、幅を随分大きく取っている。
笠下面に、塔身上部を大入れにする方形枘穴を幅34.0センチ深さ約2.0センチ彫り込む。






相輪は、下から請花部隅飾、九輪、紐帯、請花、火炎宝珠で、先行する元大原神社宝篋印塔相輪と同じ構成である。相輪には、露盤、伏鉢は無い。相輪下部は断面四角で九州様式の請花部になっている。笠隅飾1弧と同じく、それより細身の隅飾1弧で、各面や同じ面の左右の幅や上部曲線の形などにばらつきがある。側面無地、下部幅19.0センチ、上部幅18.5センチで上部がわずかに窄まっている。請花部のほぼ真ん中、中央に近い高さで左右を合せる。刹9輪の断面は、大分角張った丸で、各輪の幅や輪郭が一定せず、彫り出しも薄い。4輪目を最大径に膨らませて上下を絞った形にする。9輪上に3.5センチ程間を開け、上部につなぐ。紐帯は、薄い側面の上面をすぼめて、請花下部に繋ぐが、平行にならず波打っている。請花は、側面に単弁8葉を線刻し、間弁を入れる。蓮弁の形は、抑揚が無く形式的な形になっている。上部最大径は、18.5センチで請花部上辺の幅と同じにする。その上の火炎宝珠は、宝珠に厚く張り付いた四方の火炎や火炎頂部に破損がある。火炎表面は、無地仕上げにする。
相輪は、請花部隅飾の側面幅と輪最大径の差が小さいため、基部が細くなりすぎて、不安定に見える。相輪を重ねる笠上面幅が大き過ぎることも相まって、一層その感を強くしている。
塔身の南面に位置する種子「サ」の右脇に1行、
「應安七年甲/刀三月二十/四日」
の刻字が有る。
塔は、各部左右の高低差、笠隅飾や請花部隅飾の各面に成形のばらつきがあり、各部の直線表現も波打ったところが多く見られ、仕上げも少し粗く、加工技術が不安定になっている。また、基礎格狭間の省略した形、種子が面に対して小さ目なところ、広すぎる笠上面幅、その幅の大きさに比べて、委縮したように見える側面幅の小さい相輪請花部、9輪の角張った平断面、4輪の径を最大にする形等、各部の造形から、紀年銘の南北朝時代後期初め頃に合っているように思われる。
塔は、規模、塔身の上下を基礎と笠の枘穴に大入れにするところ、軒下2段の薄い造り出し、相輪、笠隅飾1弧、請花部隅飾1弧など、石大工一乗作の元大原神社宝篋印塔(貞和三年、1347、日田市)を基本にした作りである。基礎側面の輪郭内格狭間を1個から2個に増やし、塔身四方種子は、面に対して大分小さくなり、四仏の内「バン」を「サ」に変え、笠隅飾の延べ作りを軒と区分した造りに変え、隅飾側面の円相を無地にするなど異なった所もある。また、基礎側面、基礎や笠の各段造り出しの直線加工部分に歪みが多く、各部、各段左右の高さにも不均一なところがある。笠隅飾と相輪請花部の隅飾も4方で大きさが少し異なった所が見られる。
應安七年(1374)は、石大工一乗作の元大原神社宝篋印塔と紀年銘に27年の開きがある。元大原神社宝篋印塔も、基礎側面の方形輪郭などの直線加工にゆがみが有り、格狭間の輪郭も左右で曲線が異なるなど細部に形の崩れは有るが、基礎、笠の段形、隅飾、請花部などは丁寧に作られている。これに比べて、岩室宝篋印塔は、各部の造形が輪郭も含めて安定を欠き、笠軒上の各段の造出し平面も傾斜している所があり、一部の段で水平にならずに左右の高さが違って傾くなど、両塔を比べると、その技術には大きな差があることがわかる。また、格狭間は、丸い団扇状の形に退行して小曲線の区分が曖昧で茨を欠くなど、細部には、時代の降下による形状の変化が見られる。
これらのことから、岩室宝篋印塔は、一乗製作の宝篋印塔を手本にして、直系の後継石工によって製作されたものと思われる。
2019.09.16.調査
調査協力者;A.I.
参考文献;『大分の石造美術』 (望月友善著 木耳社 S.50.9.30)
;『九州の石塔下巻』(多田隈豊秋著 西日本文化協会 S.53.02.23.)
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