








1274.08.日 文永拾十一年八月日改立
百塔自然石塔婆群 8基
所在地;福岡県福津市大字勝浦字新原3783 双山(ぬやま)
大乗院自然石塔婆群 3基
所在地;福岡県福津市大字勝浦1680 大乗院 現在、所在不明
百塔自然石塔婆群 8基
所在地;福岡県福津市大字勝浦字新原3783 双山(ぬやま)
大乗院自然石塔婆群 3基
所在地;福岡県福津市大字勝浦1680 大乗院 現在、所在不明
百塔自然石塔婆群の第2群について述べる。
第2群は、(3)「バン」、(5)「キリーク」、(6)「バク」、(9)「カン」と、4基に1字ずつ計4つの梵字が確認できる。「バン」は金剛界大日如来、「キリーク」は阿弥陀如来、「バク」は釈迦如来、「カン」は不動明王であろう。(3)下部に
第2群は、(3)「バン」、(5)「キリーク」、(6)「バク」、(9)「カン」と、4基に1字ずつ計4つの梵字が確認できる。「バン」は金剛界大日如来、「キリーク」は阿弥陀如来、「バク」は釈迦如来、「カン」は不動明王であろう。(3)下部に
「願共諸衆生」
「往生安楽国」
「文永十一年」
「八月日改立」
「往生安楽国」
「文永十一年」
「八月日改立」
の4行とその下中央に
「勧進僧行円」
の計5行の銘文が彫られている。これにより、文永十一年(1274)八月にこれらの梵字が勧進僧「行円」によって造立供養されたのが解る。「願共諸衆生」「往生安楽国」の2行10字は十二礼讃(竜樹菩薩作 禅那崛多訳とされる。)の一つで、阿弥陀信仰系の偈である。
この梵字4字は、4字共に、月輪を持ち、太い線で刷毛書きされ、周辺を荒く削って、文字を浅く浮き残す手法が同じである。命点の形や、書体も非常に似通っている。ただ「カン」は他よりも月輪の径が小さく、梵字も貧弱に見えるが、のちに述べる理由によって、当初から2群に属して彫られたものと考えている。
注意しなければならないのは、(5)を除く3基が、百塔で最初に造立されたと考えられる第1群の3基全部を使って、その梵字の一部を削って、彫刻されているということである。銘文にある「改立」というのは、まさにこのことだと考えられる。では、何故、もとから在った第1群の3基の塔を無視、或いは廃棄して、新たな塔を建てることにならなかったのだろうか。
百塔は、丘陵の先端近く、新原古墳群の中で、特に古墳が密集した地域にある円墳上に位置している。この古墳群が古い時代の墓地であることは、当時の人々には周知のことであったのではないだろうか。その墓域の中に有る円墳上に石塔を組み合わせて立体的な曼荼羅を建立するということは、この土地に特別の意味があったと思われる。つまり、古い墓地が集積するこの場所を選定して、死者の追善供養が行われ、第1群はその惣供養塔的な役割を持って建てられたものではないだろうか。つまり、この地が近くに存在する寺院等に所属する、ある意味惣墓的な役割を果たしていたのではないか。僧「行円」がこの地に関与した時期には、第1群が惣供養塔的な塔として機能し、追善供養が行われていたという背景が、あったのではないだろうか。文永の頃に、この地で追善の法要を行う役割を担うことになったと考えられる「行円」にとって、この第1群の6尊の組み合わせが、「行円」が行う阿弥陀信仰系の追善供養の本尊としては適切ではないと考え、改立に踏み切ったのではないだろうか。そして、新しく供養塔を建立することをせずに、わざわざ元の供養塔の改立という特殊な方法を行わざるを得なかったのは、第1群の供養塔が、既に、惣供養塔的な役割を持つ存在として認知され、除外することが出来難いという背景が在ったからではないだろうか。
「行円」が行ったと考えられる改立は、
[1](3)上部の「バン」字の上部半分を浅く彫り込む。
[2](3)下部の「アーン」字の大部分を含んだ月輪内に「バン」を浅く浮き彫りにする。このときバンの空点をアークの刻線に合わせて書く。月輪内をある程度削っているものの、アークが読める程度の刻線は残す。
[3](6)上部の「ア」字は触らず、残す。
[4](6)下部の「カーン」字の空点を残し、月輪内に「バク」を浅く浮き彫りにする。このとき「バク」を月輪の中央に置かず、下にずらして、無理やりに「カーン」の刻線に一部かさねているようにみえる。「カーン」の刻線を読める程度に残す。
[5](9)上部の「アーク」字の下部の一部に月輪を重ねる。
[6](9)下部の「ウーン」字の下部を一部残して「アーク」に一部かかる月輪内に「カン」を浅く浮き彫りする。このとき「カン」を月輪の中央に置かず、下にずらして、むりやり「ウーン」字の刻線に文字の輪郭の一部を重ねているように見える。
[7](5)月輪内に「キリーク」字を浅く浮き彫りする。他の字の刻線などの痕跡は確認できないので、この塔だけは、新設されたものと考える。
(1)から(6)を見ると、第1群の梵字は、唯一手を加えていない(6)「ア」字を除いて、元字の刻線を一部新刻の字に生かしながら、しかもわざわざ読み取れる程度残すという方法をとっているように見える。これには、上記の歴史的背景とは別に、仏種字を完全に削り取って消滅させないという「行円」の宗教的意思が加わっていると思われる。なぜなら、現在でも読み取れる旧字の刻線が、改立当時には今より鮮明に読み取れたはずだからで、意識的に残した可能性が高いと思う。
まず、第一群の梵字の無効化されたものはどれかを考えたい。単純に見て、新しい彫刻がかぶっている種字、(3)「アーク」、(6)「カーン」、大乗院(1)「ウーン」の3字、それに月輪が一部かぶっている(9)の「アーク」も含まれると思う。これに、(3)上部の「バン」も文字内の上半分が削られている状態で残されており、その下に字体を変えて新たに同じ金剛界大日如来の種字「バン」を彫り込んでいることから、この上部の「バン」も無効化されたものに含まれると考えられる。(6)上部の「ア」字は改変が加えられていない。しかし、他の第2群の諸尊の配置や、新しく建立されている(5)「キリーク」を見ると塔1基に月輪中1尊の配置を基本としているのが見て取れ、この事に拠って「ア」字も無効化されているものと同様の扱いになっていると思われる。
では、「行円」の建立した立体曼荼羅の諸尊の構成は、どういうものだったのだろうか。現在確認できる梵字を見ると、「バン」「キリーク」「バク」「カン」の4尊になる。もと在った胎蔵界大日如来を上書きして除き、金剛界大日如来「バン」を主尊に据え、他の2基に彫られた密教の大日如来信仰による脇侍を構成する4尊に変えて、「キリーク」阿弥陀如来、「バク」釈迦如来を配し、それに「カン」を加える。特に、(6)「キリーク」塔は、新たに追加して造立している。銘文中2行10字の偈は阿弥陀信仰系のものであり、金剛界大日如来を本尊としながらも、密教系の阿弥陀如来極楽往生信仰を強く表現したものと思われる。
これに比して、第1群は、密教の大日如来信仰を表現し、「阿弥陀如来」が含まれておらず、「行円」にとって、「往生安楽国」を願うべき追善供養の本尊である立体曼荼羅の供養塔として適切ではないと考え、改立に踏み切ったと考えられないだろうか。
(3)に銘文があることから、金剛界大日如来を曼荼羅本尊に据えたことが理解される。大日を含む阿弥陀如来と釈迦如来を主要3尊とし、変則で多少の疑問は残るが、これに不動明王を配置したもののようである。
途中で流失したものがあったかどうか明確ではないが、行円が第1群の3基全部に改刻を加え、(5)「キリーク」を新塔造立しているところを見ると、改立時には、第1群は、3基だけがあり、不足した1基分を極楽浄土の本尊阿弥陀如来の種字のために新しく造ったと考える方が理解しやすいように思う。第2群は、如来3尊に不動明王1尊の4尊構成で、密教的な阿弥陀如来信仰の表現として、やや変則的であり、多少の疑問は残るが、組み合わせとしては一応完結しているように思える。
この梵字4字は、4字共に、月輪を持ち、太い線で刷毛書きされ、周辺を荒く削って、文字を浅く浮き残す手法が同じである。命点の形や、書体も非常に似通っている。ただ「カン」は他よりも月輪の径が小さく、梵字も貧弱に見えるが、のちに述べる理由によって、当初から2群に属して彫られたものと考えている。
注意しなければならないのは、(5)を除く3基が、百塔で最初に造立されたと考えられる第1群の3基全部を使って、その梵字の一部を削って、彫刻されているということである。銘文にある「改立」というのは、まさにこのことだと考えられる。では、何故、もとから在った第1群の3基の塔を無視、或いは廃棄して、新たな塔を建てることにならなかったのだろうか。
百塔は、丘陵の先端近く、新原古墳群の中で、特に古墳が密集した地域にある円墳上に位置している。この古墳群が古い時代の墓地であることは、当時の人々には周知のことであったのではないだろうか。その墓域の中に有る円墳上に石塔を組み合わせて立体的な曼荼羅を建立するということは、この土地に特別の意味があったと思われる。つまり、古い墓地が集積するこの場所を選定して、死者の追善供養が行われ、第1群はその惣供養塔的な役割を持って建てられたものではないだろうか。つまり、この地が近くに存在する寺院等に所属する、ある意味惣墓的な役割を果たしていたのではないか。僧「行円」がこの地に関与した時期には、第1群が惣供養塔的な塔として機能し、追善供養が行われていたという背景が、あったのではないだろうか。文永の頃に、この地で追善の法要を行う役割を担うことになったと考えられる「行円」にとって、この第1群の6尊の組み合わせが、「行円」が行う阿弥陀信仰系の追善供養の本尊としては適切ではないと考え、改立に踏み切ったのではないだろうか。そして、新しく供養塔を建立することをせずに、わざわざ元の供養塔の改立という特殊な方法を行わざるを得なかったのは、第1群の供養塔が、既に、惣供養塔的な役割を持つ存在として認知され、除外することが出来難いという背景が在ったからではないだろうか。
「行円」が行ったと考えられる改立は、
[1](3)上部の「バン」字の上部半分を浅く彫り込む。
[2](3)下部の「アーン」字の大部分を含んだ月輪内に「バン」を浅く浮き彫りにする。このときバンの空点をアークの刻線に合わせて書く。月輪内をある程度削っているものの、アークが読める程度の刻線は残す。
[3](6)上部の「ア」字は触らず、残す。
[4](6)下部の「カーン」字の空点を残し、月輪内に「バク」を浅く浮き彫りにする。このとき「バク」を月輪の中央に置かず、下にずらして、無理やりに「カーン」の刻線に一部かさねているようにみえる。「カーン」の刻線を読める程度に残す。
[5](9)上部の「アーク」字の下部の一部に月輪を重ねる。
[6](9)下部の「ウーン」字の下部を一部残して「アーク」に一部かかる月輪内に「カン」を浅く浮き彫りする。このとき「カン」を月輪の中央に置かず、下にずらして、むりやり「ウーン」字の刻線に文字の輪郭の一部を重ねているように見える。
[7](5)月輪内に「キリーク」字を浅く浮き彫りする。他の字の刻線などの痕跡は確認できないので、この塔だけは、新設されたものと考える。
(1)から(6)を見ると、第1群の梵字は、唯一手を加えていない(6)「ア」字を除いて、元字の刻線を一部新刻の字に生かしながら、しかもわざわざ読み取れる程度残すという方法をとっているように見える。これには、上記の歴史的背景とは別に、仏種字を完全に削り取って消滅させないという「行円」の宗教的意思が加わっていると思われる。なぜなら、現在でも読み取れる旧字の刻線が、改立当時には今より鮮明に読み取れたはずだからで、意識的に残した可能性が高いと思う。
まず、第一群の梵字の無効化されたものはどれかを考えたい。単純に見て、新しい彫刻がかぶっている種字、(3)「アーク」、(6)「カーン」、大乗院(1)「ウーン」の3字、それに月輪が一部かぶっている(9)の「アーク」も含まれると思う。これに、(3)上部の「バン」も文字内の上半分が削られている状態で残されており、その下に字体を変えて新たに同じ金剛界大日如来の種字「バン」を彫り込んでいることから、この上部の「バン」も無効化されたものに含まれると考えられる。(6)上部の「ア」字は改変が加えられていない。しかし、他の第2群の諸尊の配置や、新しく建立されている(5)「キリーク」を見ると塔1基に月輪中1尊の配置を基本としているのが見て取れ、この事に拠って「ア」字も無効化されているものと同様の扱いになっていると思われる。
では、「行円」の建立した立体曼荼羅の諸尊の構成は、どういうものだったのだろうか。現在確認できる梵字を見ると、「バン」「キリーク」「バク」「カン」の4尊になる。もと在った胎蔵界大日如来を上書きして除き、金剛界大日如来「バン」を主尊に据え、他の2基に彫られた密教の大日如来信仰による脇侍を構成する4尊に変えて、「キリーク」阿弥陀如来、「バク」釈迦如来を配し、それに「カン」を加える。特に、(6)「キリーク」塔は、新たに追加して造立している。銘文中2行10字の偈は阿弥陀信仰系のものであり、金剛界大日如来を本尊としながらも、密教系の阿弥陀如来極楽往生信仰を強く表現したものと思われる。
これに比して、第1群は、密教の大日如来信仰を表現し、「阿弥陀如来」が含まれておらず、「行円」にとって、「往生安楽国」を願うべき追善供養の本尊である立体曼荼羅の供養塔として適切ではないと考え、改立に踏み切ったと考えられないだろうか。
(3)に銘文があることから、金剛界大日如来を曼荼羅本尊に据えたことが理解される。大日を含む阿弥陀如来と釈迦如来を主要3尊とし、変則で多少の疑問は残るが、これに不動明王を配置したもののようである。
途中で流失したものがあったかどうか明確ではないが、行円が第1群の3基全部に改刻を加え、(5)「キリーク」を新塔造立しているところを見ると、改立時には、第1群は、3基だけがあり、不足した1基分を極楽浄土の本尊阿弥陀如来の種字のために新しく造ったと考える方が理解しやすいように思う。第2群は、如来3尊に不動明王1尊の4尊構成で、密教的な阿弥陀如来信仰の表現として、やや変則的であり、多少の疑問は残るが、組み合わせとしては一応完結しているように思える。
-----
EXTENDED BODY PRIVATE:
