









百塔自然石塔婆群 8基
所在地;福岡県福津市大字勝浦字新原3783 双山(ぬやま)
大乗院自然石塔婆群 3基
所在地;福岡県福津市大字勝浦1680 大乗院 現在、所在不明
平安時代末期~鎌倉時代初期、文永十一年八月日(1274.08.日)、鎌倉時代後期
所在地;福岡県福津市大字勝浦字新原3783 双山(ぬやま)
大乗院自然石塔婆群 3基
所在地;福岡県福津市大字勝浦1680 大乗院 現在、所在不明
平安時代末期~鎌倉時代初期、文永十一年八月日(1274.08.日)、鎌倉時代後期
先に紹介している通り、百塔自然石塔婆群は、新原古墳群の円墳上に、彫刻のある玄武岩自然石塔婆が8基、大乗院自然石塔婆3基の計11基が確認できる。ただし、大乗院の3基については、寺院改修が行われた際に所在が分からなくなって、現在見ることはできない。
この石塔群については、「筑前国続風土記 貝原益軒」「筑前国続風土記附録 加藤一純他」「筑前国続風土記拾遺 青柳種信」にすでに記載され、古くからその存在は、知られていたようである。しかし、詳細になると、石塔数多ありとし、北条時頼が平家一族の追善のため建てたという伝承や文永11年銘には触れているものの詳しいことはわからないとしている。
「九州の石塔下巻 多田隈豊明著 西日本文化協会 昭和53年刊」には「九州の石塔補遺の16新原自然石図像梵字板碑群」として掲載されている。その現地略図には、柱状玄武岩の自然石が13個示され、彫刻のないものも含めて、13基の自然石板碑として紹介されている。現地略図には、そのうち、立っているのは、(1)、(2)、(3)だけで、他は、全て、横転していると紹介されている。私が調査した時点では、掲載の「現地略図」と比較すると位置は殆ど動いていないと思うが、彫刻のあるものは、8基とも立てられた状態になっていた。本文を抜粋すると「概観するに材石、形状、各石の法量、彫刻の鏨痕等から同時建立の一群であることが察せられる。」「彫られた種字、図像がまた個々別々で八基に共通した関連性は見いだせない。ただ、銘文や彫刻から推して、往昔鎌倉時代中期に、この附近に一寺が在って、宗旨は密教系で、文永年中僧行円が住持していたであろうことを想像し得るに過ぎない。なお図像、種字、銘文に一連性は認められないが、銘文に重点をおけば鎌倉中期の造立ということになる。」とされている。この時点では未だ、大乗院の自然石塔婆群の存在は確認されていない。
前項までに個々の自然石塔婆の紹介の折に述べた通り、百塔自然石塔婆群は、内容の検討により、大乗院の3基を含む11基が確認できた。自然石塔婆の数が、もとは(どの時期でという問題もあるが)どれくらいあったかは、わからない。が、造立時代、内容別に詳しく見てみると、失われた自然石塔婆が有るとしても、その数はそれ程多くはなかったのではないかと思われる。
自然石塔婆群中、最初に造立されたと考えられるのが、内容によって第1群に分類した(3)・(6)・(9)の3基である。この3基は、全て、銘文の「文永十一年八月日改立」時の彫刻と考えられる第2群により手を加えられている。3基とも、梵字以外に、造立当初からのものと思われる刻字は見られない。3基ともすべて碑の1面だけを使い、それぞれ各2字の梵字を上下同じ大きさで配し、文字の輪郭を線刻している。
再度確認すると、(3)「バン・アーク」、(6)「ア・カーン」、(9)「アーク・ウーン」である。このうち(6)と(9)は梵字がほぼ同じ大きさで、石材の大きさも似通っている。(3)はそれより梵字を大きめに作リ、石材も、他の2基より大きめの物を使用している。梵字の大きさが異なる物の組み合わせだが、書かれた梵字の書体の類似性によって、同時期の造立であると考えられる。その書体は、刷毛の運びが伸びやかで、鎌倉時代中期以前と思われる個性があり、各梵字の雰囲気もそれに似通っている。特徴的なのは、最初の1筆目の命点の表現で、刷毛のためを作らず、刷毛の薄い一線のみで表現し、これは6字ともに共通している。このことにより、梵字は6字とも同一人の書いたものと考えられ、同時期、しかも、(3)を中心に据え、他の2基はその脇に置かれ、少なくともこの3基は一具のものとして同時に造立されたことがうかがえる。
(3)の梵字は上の「バン」が金剛界大日如来の種字、下の「アーク」が胎蔵界大日如来の種字で、金・胎両界の大日如来を一石に表現したものと考えられる。
では、他の2基は、この本尊に対して、どのような内容で、配置されたものだろうか。梵字を見てみると、上部にそれぞれ「ア」「アーク」下部には「カーン」「ウーン」が配されている。
理解しやすい下部の方から考えると、配置の関係からも、「カーン」は不動明王、「ウーン」は明王部の何れかの明王を表すと思われる。
問題なのは、上部に配置された2種字の解釈である。「ア・アーク」共にその該当する尊名が多く、すでに中央に胎蔵界大日如来は表現されており、大日如来とは考えにくい。如来部・菩薩部・金剛薩埵など、どれも可能性はあると思われ、特定するのは難しい。
また、これらの種字の配置から、当初造立された自然石塔婆の数が、この3基だけであったのかどうかも疑問が出てくるものと思う。可能性として、明王部5尊や四方仏の全部で5基から6基の可能性が考えられなくもない。しかし、現状ではこの3基しか確認できないし、おそらく、早い時期(遅くとも文永11年のころ)から3基しか認められていなかったようにも考えられるので、中央の大日如来を本尊に、脇立ちを加え、3基一具のものとして造立されたものと考えて良いように思う。
結局、「ア・アーク」の尊名は特定できないが、それも当然のことかもしれない。おそらく、勧進僧行円が、この石塔群3基の「改立」を発願する契機になったのは、その時点で既に、この石塔群の造立趣意が伝わらなくなるほどの年月が過ぎ、また、この石塔群の諸尊の配置が、この土地(円墳上)の供養塔としては、十分ではない内容になっていると考えたからではないかと思われる。現在でも、碑面を見てみると刻線は殆ど読み取れ、行円の時代に梵字が読めなかったとは考えにくいので、破損によるものではなく、内容に疑義があっての改立発願と考えた方がよさそうに思える。
第1群の造立時期は、少なくとも改立された文永十一年以前、しかも、造立の趣旨が解らなくなるほど離れた時期と考える。梵字は、刷毛書きで、伸びやかに書かれ、個性的な魅力がある。九州北部地域の、平安時代後期~鎌倉時代初期に造立された梵字自然石塔婆は、①直方市の延久二年(1070)銘植木梵字阿弥陀三尊種子自然石塔婆、②福津市本木天治二(1125)銘梵字キリーク・ア自然石塔婆、③庄内町筒野養和二年(1182)銘五智如来自然石塔婆、④諫早市西ノ郷建久元年(1190)銘梵字「アーク」「カン」「バーイ」自然石塔婆等が有る。
この内、①②程の古さは感じられない。しかし、③の梵字ほど文字は整っていないものの、一部に似通った表現が見られ、また、距離は離れているが、長崎県所在の④に書体や文字の雰囲気は非常に良く似ている。梵字だけなので、決定的なものではないが、平安時代末か、遅くとも鎌倉時代の初期、それも早い時期の造立ではないかと考える。
造立趣旨は、両界大日如来を主尊にして三基の塔婆で立体的な曼荼羅を造り、建立の場所が新原古墳群の古墳が特に集中する場所に位置する円墳上であることからも、所属する寺院、或いはこの地域の惣墓の意味を持たせたか、死者の追善供養のための供養塔として建てられたものと思われる。
この石塔群については、「筑前国続風土記 貝原益軒」「筑前国続風土記附録 加藤一純他」「筑前国続風土記拾遺 青柳種信」にすでに記載され、古くからその存在は、知られていたようである。しかし、詳細になると、石塔数多ありとし、北条時頼が平家一族の追善のため建てたという伝承や文永11年銘には触れているものの詳しいことはわからないとしている。
「九州の石塔下巻 多田隈豊明著 西日本文化協会 昭和53年刊」には「九州の石塔補遺の16新原自然石図像梵字板碑群」として掲載されている。その現地略図には、柱状玄武岩の自然石が13個示され、彫刻のないものも含めて、13基の自然石板碑として紹介されている。現地略図には、そのうち、立っているのは、(1)、(2)、(3)だけで、他は、全て、横転していると紹介されている。私が調査した時点では、掲載の「現地略図」と比較すると位置は殆ど動いていないと思うが、彫刻のあるものは、8基とも立てられた状態になっていた。本文を抜粋すると「概観するに材石、形状、各石の法量、彫刻の鏨痕等から同時建立の一群であることが察せられる。」「彫られた種字、図像がまた個々別々で八基に共通した関連性は見いだせない。ただ、銘文や彫刻から推して、往昔鎌倉時代中期に、この附近に一寺が在って、宗旨は密教系で、文永年中僧行円が住持していたであろうことを想像し得るに過ぎない。なお図像、種字、銘文に一連性は認められないが、銘文に重点をおけば鎌倉中期の造立ということになる。」とされている。この時点では未だ、大乗院の自然石塔婆群の存在は確認されていない。
前項までに個々の自然石塔婆の紹介の折に述べた通り、百塔自然石塔婆群は、内容の検討により、大乗院の3基を含む11基が確認できた。自然石塔婆の数が、もとは(どの時期でという問題もあるが)どれくらいあったかは、わからない。が、造立時代、内容別に詳しく見てみると、失われた自然石塔婆が有るとしても、その数はそれ程多くはなかったのではないかと思われる。
自然石塔婆群中、最初に造立されたと考えられるのが、内容によって第1群に分類した(3)・(6)・(9)の3基である。この3基は、全て、銘文の「文永十一年八月日改立」時の彫刻と考えられる第2群により手を加えられている。3基とも、梵字以外に、造立当初からのものと思われる刻字は見られない。3基ともすべて碑の1面だけを使い、それぞれ各2字の梵字を上下同じ大きさで配し、文字の輪郭を線刻している。
再度確認すると、(3)「バン・アーク」、(6)「ア・カーン」、(9)「アーク・ウーン」である。このうち(6)と(9)は梵字がほぼ同じ大きさで、石材の大きさも似通っている。(3)はそれより梵字を大きめに作リ、石材も、他の2基より大きめの物を使用している。梵字の大きさが異なる物の組み合わせだが、書かれた梵字の書体の類似性によって、同時期の造立であると考えられる。その書体は、刷毛の運びが伸びやかで、鎌倉時代中期以前と思われる個性があり、各梵字の雰囲気もそれに似通っている。特徴的なのは、最初の1筆目の命点の表現で、刷毛のためを作らず、刷毛の薄い一線のみで表現し、これは6字ともに共通している。このことにより、梵字は6字とも同一人の書いたものと考えられ、同時期、しかも、(3)を中心に据え、他の2基はその脇に置かれ、少なくともこの3基は一具のものとして同時に造立されたことがうかがえる。
(3)の梵字は上の「バン」が金剛界大日如来の種字、下の「アーク」が胎蔵界大日如来の種字で、金・胎両界の大日如来を一石に表現したものと考えられる。
では、他の2基は、この本尊に対して、どのような内容で、配置されたものだろうか。梵字を見てみると、上部にそれぞれ「ア」「アーク」下部には「カーン」「ウーン」が配されている。
理解しやすい下部の方から考えると、配置の関係からも、「カーン」は不動明王、「ウーン」は明王部の何れかの明王を表すと思われる。
問題なのは、上部に配置された2種字の解釈である。「ア・アーク」共にその該当する尊名が多く、すでに中央に胎蔵界大日如来は表現されており、大日如来とは考えにくい。如来部・菩薩部・金剛薩埵など、どれも可能性はあると思われ、特定するのは難しい。
また、これらの種字の配置から、当初造立された自然石塔婆の数が、この3基だけであったのかどうかも疑問が出てくるものと思う。可能性として、明王部5尊や四方仏の全部で5基から6基の可能性が考えられなくもない。しかし、現状ではこの3基しか確認できないし、おそらく、早い時期(遅くとも文永11年のころ)から3基しか認められていなかったようにも考えられるので、中央の大日如来を本尊に、脇立ちを加え、3基一具のものとして造立されたものと考えて良いように思う。
結局、「ア・アーク」の尊名は特定できないが、それも当然のことかもしれない。おそらく、勧進僧行円が、この石塔群3基の「改立」を発願する契機になったのは、その時点で既に、この石塔群の造立趣意が伝わらなくなるほどの年月が過ぎ、また、この石塔群の諸尊の配置が、この土地(円墳上)の供養塔としては、十分ではない内容になっていると考えたからではないかと思われる。現在でも、碑面を見てみると刻線は殆ど読み取れ、行円の時代に梵字が読めなかったとは考えにくいので、破損によるものではなく、内容に疑義があっての改立発願と考えた方がよさそうに思える。
第1群の造立時期は、少なくとも改立された文永十一年以前、しかも、造立の趣旨が解らなくなるほど離れた時期と考える。梵字は、刷毛書きで、伸びやかに書かれ、個性的な魅力がある。九州北部地域の、平安時代後期~鎌倉時代初期に造立された梵字自然石塔婆は、①直方市の延久二年(1070)銘植木梵字阿弥陀三尊種子自然石塔婆、②福津市本木天治二(1125)銘梵字キリーク・ア自然石塔婆、③庄内町筒野養和二年(1182)銘五智如来自然石塔婆、④諫早市西ノ郷建久元年(1190)銘梵字「アーク」「カン」「バーイ」自然石塔婆等が有る。
この内、①②程の古さは感じられない。しかし、③の梵字ほど文字は整っていないものの、一部に似通った表現が見られ、また、距離は離れているが、長崎県所在の④に書体や文字の雰囲気は非常に良く似ている。梵字だけなので、決定的なものではないが、平安時代末か、遅くとも鎌倉時代の初期、それも早い時期の造立ではないかと考える。
造立趣旨は、両界大日如来を主尊にして三基の塔婆で立体的な曼荼羅を造り、建立の場所が新原古墳群の古墳が特に集中する場所に位置する円墳上であることからも、所属する寺院、或いはこの地域の惣墓の意味を持たせたか、死者の追善供養のための供養塔として建てられたものと思われる。
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