












1447.02.19. 文安二二秊仲春十九日
宮崎県西臼杵郡日之影町大字七折東深角
凝灰岩製
宮崎県西臼杵郡日之影町大字七折東深角
凝灰岩製
日之影バイパス(国道218号線)東深角バス停から、東深角集落を登り切って、民家が途切れたすぐ先、道路の斜面上方にある共同墓地の一番奥に建っている。丘陵斜面で平坦部分がない地形を利用しているためか、前面は斜面に積石で石垣を組んで土を止め、更に割石を基礎前面の下に組み込んで平坦部を作り、その上に塔を載せている。基礎は正面だけが全面露出し、側背面は、斜面に沿うように土をかぶっている。積石は、造立当初のものか後世に積まれたものか判断できなかった。
塔高;141.0センチ
基礎側面下部幅;44.5 基礎側面上部幅;44.0 基礎側面高;22.5
基礎上面幅;36.0 基礎高;24.5
軸部幅;31.0 軸部高;34.0
枘下部幅;28.0 枘上部幅;27.5 枘高;2.0
塔身高;34.0
笠軒幅;42.0 笠軒最大幅;43.0 笠軒高;約4.5前後
笠下面幅;35.5 笠上面幅;28.0 笠上面最大幅;29.5
笠高;28.0
笠隅飾高;14.0から14.5前後
相輪請花部下幅;23.0 相輪請花部上部幅;22.0 請花部高;21.0
刹3輪下部径;17.0 刹3輪上部径;15.5
2重紐帯最大径;20.0 2重紐帯高;4.0
四方火炎宝珠下部径;17.0 四方火炎宝珠最大径;18.0
四方火炎宝珠高;13.5
相輪高;52.5
基礎は、下部より上部幅を僅かに小さくして、上に2段を造り出す。上2段は、共に高さ1.0センチ程で、幅に対して、非常に低い造り出しである.また、笠下部の造り出しに比べて半分位の高さになっている。
正面に、10行の銘文がある。
基礎側面下部幅;44.5 基礎側面上部幅;44.0 基礎側面高;22.5
基礎上面幅;36.0 基礎高;24.5
軸部幅;31.0 軸部高;34.0
枘下部幅;28.0 枘上部幅;27.5 枘高;2.0
塔身高;34.0
笠軒幅;42.0 笠軒最大幅;43.0 笠軒高;約4.5前後
笠下面幅;35.5 笠上面幅;28.0 笠上面最大幅;29.5
笠高;28.0
笠隅飾高;14.0から14.5前後
相輪請花部下幅;23.0 相輪請花部上部幅;22.0 請花部高;21.0
刹3輪下部径;17.0 刹3輪上部径;15.5
2重紐帯最大径;20.0 2重紐帯高;4.0
四方火炎宝珠下部径;17.0 四方火炎宝珠最大径;18.0
四方火炎宝珠高;13.5
相輪高;52.5
基礎は、下部より上部幅を僅かに小さくして、上に2段を造り出す。上2段は、共に高さ1.0センチ程で、幅に対して、非常に低い造り出しである.また、笠下部の造り出しに比べて半分位の高さになっている。
正面に、10行の銘文がある。
「右伏以」
「預修逆修」
「現前玉躰」
「各々七分全得」
「之逆修現世」
「安穏後生」
「善處也」
「旹文安二二秊丁卯」 *「卯」は推読
「仲春十九日○」
「叟○書敬白」 *「書」は推読
「預修逆修」
「現前玉躰」
「各々七分全得」
「之逆修現世」
「安穏後生」
「善處也」
「旹文安二二秊丁卯」 *「卯」は推読
「仲春十九日○」
「叟○書敬白」 *「書」は推読
塔身は、幅よりも高さを少し大きく造る。現状では、軸部に低い首部を造り出しているように見える状態で重ねられている。上部の首部のように見える造り出しは、塔身に合わせた四角で、その高さも低い。宝篋印塔の塔身に首部を加えることは考えにくいので、形状とも併せて、枘として造られたものと考えられる。上下の幅は、基礎上面幅と笠下面幅よりも狭いので接合部だけを見れば合っているようにも思われる。しかし、塔形全体で見ると、基礎と笠に対して、幅、高さ共に大き過ぎるように見える。笠の底部に枘穴の加工はなく、そのまま乗せてあることから、塔身と笠は、別塔の重ね合わせで、この大きめの塔身に見合った石塔が別に存在していたものと思われる。
四方には、筆書きとも刷毛書きとも取れる書体で仏種子を薬研彫する。前時代の滑らかさや力強さが失われており、筆の運びは流麗さを欠いて角が立ち、そのため、字形もかなり崩れ気味になっている。室町時代に入って少し時代が過ぎたころ、基礎銘の文安四年(1447)前後の室町時代も中期に近い頃のものと思われる。
種子は、
四方には、筆書きとも刷毛書きとも取れる書体で仏種子を薬研彫する。前時代の滑らかさや力強さが失われており、筆の運びは流麗さを欠いて角が立ち、そのため、字形もかなり崩れ気味になっている。室町時代に入って少し時代が過ぎたころ、基礎銘の文安四年(1447)前後の室町時代も中期に近い頃のものと思われる。
種子は、
「ウーン」「タラーク」「キリーク」「アーク」。
金剛界四方仏種子の不空成就如来種子「アク」を「アーク」に変えている。ここでは、金剛界四方仏の内、胎蔵界大日如来種子にも使用されることのある種子「アク」に「アー」2点を加えた文字で、胎蔵界大日如来とし、金剛界、胎蔵界両界の大日如来の塔として造立したことを表現していると考えられる。
笠軒は、側面よりも、中央部を1.0センチ程張り出させ、最大幅は、軒中央部にある。軒下3段、軒上は変則5段を造り出す。
軒は、段の2倍の厚みを取る。
隅飾は、幅の大きな1弧。軒からほぼ垂直に立ち上がり、軒との区分、開きが無い延べ造りにする。通常の隅飾とは異なり、頂部は側線の上部の角を落として2.5から3.0センチ程内側に入れる。
軒上の段は、軒下段と同じ厚さで3段、最上段に同じ厚さで1段、3段と最上段の間に10.5センチ厚の4段目を加える。この4段目の特別に厚い作りは、上下の傾斜は極僅かで変則的ではあるが、宝形造屋根を表現していると考えられる。相輪に露盤が無く、宝形造屋根には露盤が造り出されるのが通例なので、五段目は露盤として造り出されていると思われる。
九州の宝形造屋根を持つ在銘宝篋印塔は、磨崖線刻塔ではあるが鎌倉時代後期初めの清水磨崖仏塔群線刻宝篋印塔(永仁四年、1296)4基(鹿児島県南九州市川辺町清水字薬師ノ下清水磨崖仏群)がもっとも古く、同所では、それ以降も同じ形で多くの磨崖線刻宝篋印塔が造立されている。笠軒上は2段で異なるが、その上に、宝形造屋根と各段の3分の1程の高さにした露盤を作るところは同じ構成になっている。相輪は、九州様式だが、伏鉢を加え、請花部の形も異なっている。同市内には、この永仁四年銘磨崖線刻宝篋印塔に倣って造立されたと思われる、立体の宝篋印塔残欠塔が数基残っている。
東深角塔は、軒上下の段数が、清水磨崖仏塔群線刻宝篋印塔群のものより1段増えて3段になっているが、直接影響を受けたと思えるほどにその構造は似通っている。造立の時代は、かなり隔たっており、その時間と距離をつなぐ石塔は、今のところ確認できていない。
相輪は1石で、露盤、請花部、3輪、紐帯2重、四方火炎宝珠を造る。露盤と請花部は区分の無い断面四角の立方体で、一体型になっている。請花部は、隅飾1弧4重を明確に重ね、中央部で間を開け、外側は、露盤との境界を作らず延べ造りにする。3輪、紐帯2重、四方火炎宝珠は断面丸。3輪の輪間は、明瞭に区分する。紐帯は、中央部を鋭角に削ったものを2つ重ねる。これは、反花座と請花座の省略形であるかもしれない。四方火炎宝珠は、宝珠に細い火炎状を貼り付けて隙間は作らない。宝珠の火炎状は無地で、火炎の彫刻はない。宝珠の露出部中央下部4方に細長い蓮弁形各1個を線刻で加えている。
相輪は、通常のものに比べると、露盤、請花部が幅、高さともに大き過ぎ、9輪が省略されて3輪になった輪も太く短いので、背が低くずんぐりしている。
組み合わされた石材4石は、全て同質の凝灰岩製で違和感はない。しかし、塔身は、上部造り出しの枘が枘穴の無い笠下面と噛合わず別塔のものと思われる。しかし、塔身は、大きすぎるように見えるが、枘の問題がなければ、基礎の紀年銘と四方仏種子に時代差は感じられず、元からの1具と見ていたかもしれない。基礎、笠、相輪は、元からの組み合わせ部材と考えられる。笠は、軒幅に比べて、上辺幅が大きすぎ、相輪露盤、請花部も、笠上辺幅に合わせたように幅広で過大な作りになっているため上部が重く感じられる。
日之影町には、五ヶ瀬川下流の対岸、大字分城字今竹小字竹の平天神社境内に、同時代文安二年銘宝塔2基、宝徳二年銘宝塔1基がある。地方色の強い造形ながら、こちらの相輪は、断面円の請花、反花を用いている。
旧西臼杵郡内の相輪を有する石塔の相輪は、海岸部に近い所は断面丸の請花、及び反花が多く、山間部から熊本県境では断面四角の請花部が多いように思われる。日之影町はその中間に位置して両形式が混在する地域になっている。
旧西臼杵郡内の在銘石塔として、竹の平天神社宝塔に次ぐ在銘塔で、これまでの所宝篋印塔最古の紀年銘を有している。当地域石塔相輪の断面四角の請花部の最古例でもあり、基準作としても重要な位置を占める石塔である。
笠軒は、側面よりも、中央部を1.0センチ程張り出させ、最大幅は、軒中央部にある。軒下3段、軒上は変則5段を造り出す。
軒は、段の2倍の厚みを取る。
隅飾は、幅の大きな1弧。軒からほぼ垂直に立ち上がり、軒との区分、開きが無い延べ造りにする。通常の隅飾とは異なり、頂部は側線の上部の角を落として2.5から3.0センチ程内側に入れる。
軒上の段は、軒下段と同じ厚さで3段、最上段に同じ厚さで1段、3段と最上段の間に10.5センチ厚の4段目を加える。この4段目の特別に厚い作りは、上下の傾斜は極僅かで変則的ではあるが、宝形造屋根を表現していると考えられる。相輪に露盤が無く、宝形造屋根には露盤が造り出されるのが通例なので、五段目は露盤として造り出されていると思われる。
九州の宝形造屋根を持つ在銘宝篋印塔は、磨崖線刻塔ではあるが鎌倉時代後期初めの清水磨崖仏塔群線刻宝篋印塔(永仁四年、1296)4基(鹿児島県南九州市川辺町清水字薬師ノ下清水磨崖仏群)がもっとも古く、同所では、それ以降も同じ形で多くの磨崖線刻宝篋印塔が造立されている。笠軒上は2段で異なるが、その上に、宝形造屋根と各段の3分の1程の高さにした露盤を作るところは同じ構成になっている。相輪は、九州様式だが、伏鉢を加え、請花部の形も異なっている。同市内には、この永仁四年銘磨崖線刻宝篋印塔に倣って造立されたと思われる、立体の宝篋印塔残欠塔が数基残っている。
東深角塔は、軒上下の段数が、清水磨崖仏塔群線刻宝篋印塔群のものより1段増えて3段になっているが、直接影響を受けたと思えるほどにその構造は似通っている。造立の時代は、かなり隔たっており、その時間と距離をつなぐ石塔は、今のところ確認できていない。
相輪は1石で、露盤、請花部、3輪、紐帯2重、四方火炎宝珠を造る。露盤と請花部は区分の無い断面四角の立方体で、一体型になっている。請花部は、隅飾1弧4重を明確に重ね、中央部で間を開け、外側は、露盤との境界を作らず延べ造りにする。3輪、紐帯2重、四方火炎宝珠は断面丸。3輪の輪間は、明瞭に区分する。紐帯は、中央部を鋭角に削ったものを2つ重ねる。これは、反花座と請花座の省略形であるかもしれない。四方火炎宝珠は、宝珠に細い火炎状を貼り付けて隙間は作らない。宝珠の火炎状は無地で、火炎の彫刻はない。宝珠の露出部中央下部4方に細長い蓮弁形各1個を線刻で加えている。
相輪は、通常のものに比べると、露盤、請花部が幅、高さともに大き過ぎ、9輪が省略されて3輪になった輪も太く短いので、背が低くずんぐりしている。
組み合わされた石材4石は、全て同質の凝灰岩製で違和感はない。しかし、塔身は、上部造り出しの枘が枘穴の無い笠下面と噛合わず別塔のものと思われる。しかし、塔身は、大きすぎるように見えるが、枘の問題がなければ、基礎の紀年銘と四方仏種子に時代差は感じられず、元からの1具と見ていたかもしれない。基礎、笠、相輪は、元からの組み合わせ部材と考えられる。笠は、軒幅に比べて、上辺幅が大きすぎ、相輪露盤、請花部も、笠上辺幅に合わせたように幅広で過大な作りになっているため上部が重く感じられる。
日之影町には、五ヶ瀬川下流の対岸、大字分城字今竹小字竹の平天神社境内に、同時代文安二年銘宝塔2基、宝徳二年銘宝塔1基がある。地方色の強い造形ながら、こちらの相輪は、断面円の請花、反花を用いている。
旧西臼杵郡内の相輪を有する石塔の相輪は、海岸部に近い所は断面丸の請花、及び反花が多く、山間部から熊本県境では断面四角の請花部が多いように思われる。日之影町はその中間に位置して両形式が混在する地域になっている。
旧西臼杵郡内の在銘石塔として、竹の平天神社宝塔に次ぐ在銘塔で、これまでの所宝篋印塔最古の紀年銘を有している。当地域石塔相輪の断面四角の請花部の最古例でもあり、基準作としても重要な位置を占める石塔である。
2015.10.29.調査
調査協力者;A.I.
調査協力者;A.I.
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