

















南北朝時代前期
大分県杵築市大田小野田原河内 財前家墓地石塔群
安山岩
大分県杵築市大田小野田原河内 財前家墓地石塔群
安山岩
同墓地石塔群の最古塔、元應三年(1321)銘塔の横に、基壇の高さを揃えて並べられている。塔形と、置かれている位置から、元應三年銘塔に次いで造立されたものと考えられる。
基礎側面は2区に分け、格狭間を平底に彫り込む。格狭間は、上部中央が茨を作らず、開いて、上枠に着けている。この特殊な形は、元應三年銘国東塔、大田石丸の元徳二年(1330)銘国東塔にも見られる。これらの鎌倉時代末期から南北朝時代に造立された石塔が、同一石工ないしは同一系列の石工集団によって作られていることを示していると考えられる。格狭間は、上部中央が茨を作らず開き、すぐ両脇に小さな山形の1弧を付ける。そこから肩部を下げて、両側線の曲線は両側に丸く膨らみ、下部の脚部につなぐ。この退行した形は、岩戸寺国東塔から続く初期国東塔の中央様式に近い格狭間とは一線を画している。
基礎上面に、複弁の反花座を造り出す。元應三年銘塔に準じているが、側線は、元應塔ほど曲線に張りは見られず、直線的なわずかな曲線で立ち上がり、2股に広げた先の尖った弁先の表現も直線的で抑揚が乏しい表現になっている。同様な傾向が見える石丸国東塔に比べても、より形式化しているのが見て取れる。上面は浅く彫り込み、塔身軸部の下部を請ける構造になっている。
塔身軸部の形は、少し上部の肩が張り、下部も少しすぼまっているが、側線はやや立型の樽型に近い形で、先行する肩が張り出して下部をすぼめる2塔とは少し異なっている。2塔と同じく径に比べて比高は低く、下窄まり気味ではあるが、岩戸寺塔系の樽型との中間形である。上に首部を造り出し、笠下面の枘穴に入れる。
笠は、先行の2塔と同様の作りで、軒裏は低平に加工し、軒は直線にして、両端で強く反り上がる。上辺より下辺曲線を強く撥ね上げるため、軒厚は、中央部が厚く、両端では薄くなっている。先行2塔より軒幅に比べて軒厚を厚めにしているので、2塔ほどの伸びやかさは無い。
相輪は、露盤と一石に作る。
露盤は、幅、高さ共にかなり大きめに作る。側面を2区に分け、ほぼ正方形の枠内に格狭間を平底に彫り込む。基礎の格狭間と同じく、頂部は開いて上枠に着け、頂部から下がった位置のすぐ両脇の小山形は先を尖らせ、更に両肩を下げて、両側の曲線につなぐ。正方形の枠に合わせたためか、格狭間は、幅より高さが高くなってチューリプの花に似た形状をしている。
相輪は、露盤の上に複弁反花、薄い敷茄子(紐帯)、小間弁付きの単弁請花、6輪、3輪分ほどの間を開けて、紐帯、小間弁付き単弁請花、火炎宝珠の構成になっている。火炎部分は、一部だけが残り大部分が欠失している。
特殊な表現として、塔身軸部に五輪塔五大の四転種子の内3字、笠屋根の上半分に2字を薬研彫している。種子の書体は、読み取りにくく、あまり上手く出来ていない。
基礎上面に、複弁の反花座を造り出す。元應三年銘塔に準じているが、側線は、元應塔ほど曲線に張りは見られず、直線的なわずかな曲線で立ち上がり、2股に広げた先の尖った弁先の表現も直線的で抑揚が乏しい表現になっている。同様な傾向が見える石丸国東塔に比べても、より形式化しているのが見て取れる。上面は浅く彫り込み、塔身軸部の下部を請ける構造になっている。
塔身軸部の形は、少し上部の肩が張り、下部も少しすぼまっているが、側線はやや立型の樽型に近い形で、先行する肩が張り出して下部をすぼめる2塔とは少し異なっている。2塔と同じく径に比べて比高は低く、下窄まり気味ではあるが、岩戸寺塔系の樽型との中間形である。上に首部を造り出し、笠下面の枘穴に入れる。
笠は、先行の2塔と同様の作りで、軒裏は低平に加工し、軒は直線にして、両端で強く反り上がる。上辺より下辺曲線を強く撥ね上げるため、軒厚は、中央部が厚く、両端では薄くなっている。先行2塔より軒幅に比べて軒厚を厚めにしているので、2塔ほどの伸びやかさは無い。
相輪は、露盤と一石に作る。
露盤は、幅、高さ共にかなり大きめに作る。側面を2区に分け、ほぼ正方形の枠内に格狭間を平底に彫り込む。基礎の格狭間と同じく、頂部は開いて上枠に着け、頂部から下がった位置のすぐ両脇の小山形は先を尖らせ、更に両肩を下げて、両側の曲線につなぐ。正方形の枠に合わせたためか、格狭間は、幅より高さが高くなってチューリプの花に似た形状をしている。
相輪は、露盤の上に複弁反花、薄い敷茄子(紐帯)、小間弁付きの単弁請花、6輪、3輪分ほどの間を開けて、紐帯、小間弁付き単弁請花、火炎宝珠の構成になっている。火炎部分は、一部だけが残り大部分が欠失している。
特殊な表現として、塔身軸部に五輪塔五大の四転種子の内3字、笠屋根の上半分に2字を薬研彫している。種子の書体は、読み取りにくく、あまり上手く出来ていない。
造立の時代は、元応銘塔、石丸国東塔にその構成は準じながらも、2塔に比べて、格狭間、基礎上の反花座、軒の造り、露盤の格狭間、9輪が6輪に減少している事など、塔形や細部の造形の退化傾向が見られることから、南北朝時代に降るものと考えられる。しかし、南北朝時代後期の大田波多方龍蓮寺永和二年(1376)銘塔に比べると、それより以前の造立と考えられ、南北朝時代前期に属するものと思われる。
2016.06.04写真
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