にほんブログ村 歴史ブログへ
にほんブログ村
イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13

イメージ 14

イメージ 15

イメージ 16

イメージ 17

イメージ 18

イメージ 19

イメージ 20

1350.09  貞和六年九月


福岡県宮原町1-191 駛馬(はやめ)天満宮


凝灰岩製


福岡県指定有形文化財











 県指定名称は「宮原石層塔残欠」となっているが、銘文により五重塔として造立されたことがわかるので、表記の名称にした。





 現在、駛馬天満宮境内に移設されているが、もとは、鳥居前の里道を100メートルほど降った木造堂内に有った。(写真)ただ、後述の基礎に、天満宮御宝前の銘が見られ、もとの所在地も天満宮境内に含まれていたと考えられる。





 残欠で、他塔部品からの混入物と積み上げられており、残っている部品は少ない。




 地覆付基礎、初層塔身、初層笠、他に笠1個、相輪の一部が残り、他は欠失している。







 大まかに四角形に加工した地覆の上部に、下部より上部幅を少し狭くした台形状の基礎を造り出す。地覆と基礎とを一石で造り出す特殊な加工をしている。基礎上面には、四角の納入孔が彫られている。基礎側面の3面に紀年銘を含む長文の銘文が彫られている。





 初層塔身は、四角の大面取りで、面取り部分が大きいので、その断面は8角形に近い形状になっている。底面は、浅い内刳りにしている。


 4面には、膝部、身部、頭部に3重区分された光背型龕を深く彫り込み、仏坐像を半肉彫する。頭部光の頂部は尖らせている。像は、頭部の彫刻はていねいだが、体部や膝、衣文線などはかなり形式化して、腕の表現には、少しぎこちなさが見受けられる。


 像の載る蓮台は、幅、高さともに像に比べて大きめに造る。蓮弁も大きく、中央蓮弁の上部は剣先型に近い尖りがあり、左右に広がる蓮弁も随分硬い表現になってきている。前代の鎌倉時代の蓮台と比較すると、力強さや流麗さは弱まってきているが、次の室町時代ほどの形式化までには至っていない過渡期の雰囲気が感じられる。


 この塔身4面の仏像は、手印を変えた阿弥陀如来3体、薬師如来1体で四方仏を形成する特殊な配置である。仮に、薬師如来を東面に置くと、南面上品下生印(来迎印)阿弥陀如来、西面上品中生印(説法印)阿弥陀如来、北面上品下生印(来迎印、左右逆手)阿弥陀如来になる。阿弥陀如来3体の方位配置は上品中生印の西面を中心に考えていると思われる。初重以外の塔身が失われているので、2重以上に仏菩薩像等が彫刻されていたかどうか確認できない。





 面取り部の4面には、体全体に、基本的には3重の光背型龕を四方仏のものより浅めに彫り込み、中に半肉彫四天王立像を彫刻している。像は動的な姿勢を取り、4体共に異なった動きがあり、また持物も龕中に入れているために、持物や像の動きに合わせて龕の形は変化させている。龕の上には、火焔を線刻で加える。四天王の載る邪鬼は、仰向け、腹這い、横向き、前向きと姿勢を変えて変化を持たせている。四天王像は、甲冑をつけ兜を被り、持物を変えている。右手に三叉戟(さんさげき)、左手に宝塔を捧げた北方多聞天は確認できるが、他3体は、持物からは尊名が確定できない。一応、北の多聞天を基準にして、配置された方位により尊名を宛てておく。







東方天 持国天 右手刀、左手刀の峰


南方天 増長天 右手三叉戟 左手腰


西方天 広目天 右手箭(ヤ・セン) 左手弓


北方天 多聞天 右手三叉戟 左手宝塔







 ただ、この多聞天(毘沙門天)を北方位におくと、四方仏の薬師如来が東方ではなく南方に配置されていることになる。





 笠は、2個だけが残り、大小の差はあるが、同様の造りになっている。軒が厚く、軒は平行部分がない真反りで、両端を大きく反らせている。上辺曲線を下辺より更に大きく反り上げているので、両端で軒の厚みが増し軒先も少し不自然に見えるほど、尖り気味にしている。このような軒反りは、鎌倉時代にはあまり見られない形で、南北朝時代前期の雰囲気が感じられ、次の室町時代への過渡期の傾向を示している。軒下には、垂木を彫りださずに、一段の垂木型を加えている。垂木型の下面には浅い膨らみを加えている。笠上辺の棟幅が大きいので、屋根や降り棟は短い。


 屋根各面に梵字が彫られている。大きい方が「ア」「アー」「アン」「アク」、小さい方に「バ」「バー」「バン」「バク」がある。後述のとおり銘文から元は五重塔だったことがわかるので、五重のそれぞれの屋根に梵字があり、それは、五輪塔五大種子「キャ・カ・ラ・バ・ア」であったことが類推できる。梵字は、かなりぎこちない書体になっており、文字を書いた人物が梵字を得意にしていなかったのではないかと思われる。


 大きい方の笠の下面に、初層塔身上辺の四角大面取りに合わせた大入れの枘が浅く彫り込まれており、これが第一重の笠であることが確認できる。そして小さいほうの笠は彫られた梵字によって、2重目のものであったことがわかる。この笠の底面には、方形の浅い大入れの枘穴がある。今は失われている2重目軸部が通常の方形であったことが確認できる。





 相輪は、刹輪3輪だけが残り、他は欠失している。径は、大きめで、輪幅も広く作り出している。





 基礎の3面に、銘文が彫られている。





(正面)





 「奉造立」





 「筑後国三毛」





 「南郷米生村」





 「天満大自在」





 「天神御寶前」





 「五重石塔一基」





 「右造立之志者且」





 「為奉増和光之」




 


 「利益且為天下」       *「利」 上部欠失







 「安全国家豊」        *「安」 上部欠失








(右側面)





 「饒殊為二親」        *「饒」 上部欠失





 「亡魂出離生」        *「出」 向かって右半分欠失





 「死頓證菩提」        *「死」 上部欠失





 「乃至法界平」        *「乃」 上部欠失  「界」 下部欠失





 「等利益所」         *「等」 上部欠失





 「奉造立如件」





 「貞和六年庚刀九月」





 「○願主馬籠住人」      *「願主馬籠住」 5字とも向かって左半分欠失





 「○○○○○○」       *この行は割れ欠けた余白分から推測。余白は2行分ある。








(左側面)





 「キヌシウノ」





 「ツユ二アラソウ」





 「ハレナレヤ」





 「トヨアシワラノ」





 「風二チリナン」





 「ノチノヨノカタミノ」





 「石ハチリ世二モ」





 「方ラハシラヌ」





 「ヨ二ハツタヱヨ」





 「南無阿弥陀佛」





 この銘文により、筑後国三毛南郷米生村(現在の大牟田市南部、熊本県との県境地域)の天満大自在天神(現在の駛馬天満宮)御寶前に「馬籠住人某(氏名は欠失)」が大願主になって「五重石塔一基」を造立供養したことがわかる。和歌銘の阿弥陀名号と初層塔身の3面に阿弥陀如来を表現し、その内2体を来迎印に作ることから、亡き二親の菩提を弔い、極楽往生を願うとともに、薬師如来を加え併せて「奉増和光之利益且為天下安全国家豊饒乃至法界平等利益」と現世利益を願って建立されたことがわかる。


 馬籠住人は氏名が欠失して誰かはわからないが、この石塔の作者は、銘文の彫り方、表現、仏像彫刻、蓮弁の形、笠の形体から、石大工藤原助継(助次、介嗣とも)と推定できる。助継の作品は、この塔の貞和六年(1350年)から正平十二年(1357年)までの8年間に9基(1基は紀年銘なし)が知られている。北は福岡県大川市1基、福岡県大牟田市5基、熊本県荒尾市1基、熊本県玉名郡南関町1基、南は熊本県熊本市1基で、大牟田市とその隣接地に7基が集中して活動の中心地で有ることを示している。





この項未稿





参考文献;『九州の石塔上巻』(多田隈豊秋著 西日本文化協会 S.50.08.01.)










-----
EXTENDED BODY PRIVATE: