





1370.04.08 正平弐十五秊庚戌卯月八日
宮崎県日南市大字吉野方字迫の内 大迫寺
凝灰岩製
宮崎県日南市大字吉野方字迫の内 大迫寺
凝灰岩製
基礎高;33.0センチ 基礎幅;66.0
塔高;173.0
脚部高;29.0 脚下部幅;54.0 脚下部側面厚;29.0 脚下部最大厚;37.0
脚上部幅;53.0 脚上部側面厚;29.0 脚上部最大厚;37.5
碑面高;144.0 碑面下部幅;53.0 碑面下部側面厚;22.5 碑面下部最大厚;31.5
碑面上部幅;約46.5 碑面上部側面厚;18.0 碑面上部最大厚;19.5
脚部高;29.0 脚下部幅;54.0 脚下部側面厚;29.0 脚下部最大厚;37.0
脚上部幅;53.0 脚上部側面厚;29.0 脚上部最大厚;37.5
碑面高;144.0 碑面下部幅;53.0 碑面下部側面厚;22.5 碑面下部最大厚;31.5
碑面上部幅;約46.5 碑面上部側面厚;18.0 碑面上部最大厚;19.5
板碑は、後補の基礎上に乗せられている。下部に枘があるかどうかは不明。
全体に、下部幅より上部幅を少し小さくした梯形に加工し、表面と側面を整え、背面は荒く仕上げている。
下部に、碑面から6.5センチ出して、脚部を造り出す。
下部に、碑面から6.5センチ出して、脚部を造り出す。
下から高さ123センチ程の所、陰刻された蓮台の上部で、ほぼ水平に折れているのを、欠けているところに小石などを詰めてそのまま上に乗せて、復元されている。蓮台上部の彫刻と、梵字下部の彫り込みの線の連続性から、上下がもとからのものであることが確認できる。
最上部は、梵字の一部を含んで、上を欠失している。脚部を造り出していることや、この周辺地域や、大迫寺の他の板碑の形状から、額部と2条の切り込み、山形の頭部を持つ、碑伝型板碑であったと思われるが、現在、その部分を欠いて確認できないので、分類は板碑残欠とした。
碑面上部に連肉を見せた蓮台の連弁を輪郭を残して陰刻し、その上に梵字「バン」を力強く太い刷毛書きで、薬研掘りする。太く、大きく彫り込まれた梵字は、幾分鎌倉時代の風格を感じさせ、また、蓮台の蓮弁の表現も華麗である。蓮台、梵字共に、陰刻部には墨が入れられている。
なお、蓮台と梵字を囲む大月輪の下部と、欠失した上部にも上側の線刻の一部が残っており、これは、碑面幅を大きくはみ出す大月輪を造り、碑面幅に入る上下の曲線のみを、線刻して表現したものと思われる。
なお、蓮台と梵字を囲む大月輪の下部と、欠失した上部にも上側の線刻の一部が残っており、これは、碑面幅を大きくはみ出す大月輪を造り、碑面幅に入る上下の曲線のみを、線刻して表現したものと思われる。
銘文が、3行、碑面下部半分に刻字と墨書を交えて書かれ、また、刻字にも全て、墨が入れられている。
「相當先師弘惠和尚位弎十三回遠□」
正平弐十五秊庚戌卯月八日 門徒 各 」
為増進佛動乃至法界平等利□□」
正平弐十五秊庚戌卯月八日 門徒 各 」
為増進佛動乃至法界平等利□□」
このうち墨書は
1行目「相當 和尚位 回遠忌」
2行目「 秊 日 」
3行目「為増進佛道乃至法界平等利□□」
2行目「 秊 日 」
3行目「為増進佛道乃至法界平等利□□」
で、他は刻字で表わす。
何故、墨書と刻字を交えて書かれているのかは解らないが、この場合、墨書でも済むものを、わざわざ強調したいところを刻字にして造立した、と考える方がいいように思われる。
なお、墨書で読み取れない文字は、「□」で表示したが
九州の石塔上巻では
1行目末尾を
「忌」とする。現在では字画を読み取れなかったが、九州の石塔掲載の写真では字画の上部が明瞭に写っている。
2行目「各」の下に痕跡は確認できないとしながらも、「敬白」の2文字があったものと推定し、3行目は記録されていない。
1行目末尾を
「忌」とする。現在では字画を読み取れなかったが、九州の石塔掲載の写真では字画の上部が明瞭に写っている。
2行目「各」の下に痕跡は確認できないとしながらも、「敬白」の2文字があったものと推定し、3行目は記録されていない。
日向の石塔では
2行目「各」の下に横に並べて、
「敬白」の2字を入れているが、現在、肉眼では全くその痕跡を確認できないので、この報告では空白のままにした。
3行目下部の2字を
「益也」と書きこまれている。
通常であればこの2字になると思われるが、痕跡はあるものの、字画が判別、確認できなかったので、「□□」で報告した。
2行目「各」の下に横に並べて、
「敬白」の2字を入れているが、現在、肉眼では全くその痕跡を確認できないので、この報告では空白のままにした。
3行目下部の2字を
「益也」と書きこまれている。
通常であればこの2字になると思われるが、痕跡はあるものの、字画が判別、確認できなかったので、「□□」で報告した。
この板碑は弘恵和尚の三十三回忌日供養塔として造立されたものである。これによって、弘恵和尚の没年時が33年前の暦応元年(1338年)四月八日だと解る。
この板碑に並んで建っている多宝塔は、塔身正面に「律師弘恵」と彫られていることから、弘恵の墓塔として造立されたと考えられ、その造立時期を推定するための重要な資料にもなっている。
2009.10.12調査
調査協力;岩下 徹
調査協力;岩下 徹
参考文献;『九州の石塔下巻』(多田隈豊秋著 西日本文化協会刊)
『日向の石塔』(甲斐常興、伊豆道明著刊)
『日向の石塔』(甲斐常興、伊豆道明著刊)
写真整理中のため、この項未稿
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