

1576.11.11推定 天正四丙子十一月十一日
長崎県大村市大字今富郷字地堂
安山岩製
長崎県大村市大字今富郷字地堂
安山岩製
この墓碑は、キリシタン墓碑として作られたものである。その形から、蒲鉾型として分類されているものを立てて、本来は下になっている部分を正面にして銘を彫り、日蓮宗の墓碑としたものである。表示寸法は、現状の通りに示す。
基礎高;23.0 基礎幅;61.5
墓碑高中央部;95.0 墓碑高両端部;94.5
下部幅;60.0 中央部幅(最大幅);63.5 上部幅;62.5
下部彫りこみ高;12.0 下部彫りこみ幅;39.0 下部彫りこみ奥行;31.0
墓碑厚;46.0
墓碑高中央部;95.0 墓碑高両端部;94.5
下部幅;60.0 中央部幅(最大幅);63.5 上部幅;62.5
下部彫りこみ高;12.0 下部彫りこみ幅;39.0 下部彫りこみ奥行;31.0
墓碑厚;46.0
銘が、碑の正面に3行彫られている。
「天正四丙子十一月十一日」
「不染院水心日栄霊」
「一瀬治部大悑」
墓碑上面、本来は蒲鉾型墓碑の小口に当たる部分に、二重台付きの干十字を線刻で、彫り込む。この事から、この墓碑は、もとは、キリシタン墓碑として造られたことがわかる。キリスト教が禁教になって弾圧が厳しくなった頃に、キリシタン墓碑を隠すために、仏教の墓碑として改立されたものと思われる。そのため、紀年銘は、日栄の没年時だと考えられ、このキリシタン墓碑は、その性格上、日栄の死後、時を経ないうちに造られたものと思われる。
日栄は、キリシタン大名大村純忠の重臣の一人で天正四年に亡くなったという、越智相模栄正とされる。
一瀬治部大悑は施主で、日栄の子供と考えられる。
日栄は、キリシタン大名大村純忠の重臣の一人で天正四年に亡くなったという、越智相模栄正とされる。
一瀬治部大悑は施主で、日栄の子供と考えられる。
1974.11.11調査
参考文献;『九州の石塔上巻』(多田隈豊秋著 西日本文化協会)
この項未稿
-----
EXTENDED BODY PRIVATE:
