お寺とか神社はとても好きだ。

妙龍寺参道
(写真は妙龍寺)


特定の宗教を持っている訳ではないが、仏教哲学や東洋思想は大好き。
人間哲学として私の人生の規範となっている。
それとは別に、お寺や神社の持つ佇まいや雰囲気が好きなのだ。

妙龍寺3


全国の主だった神宮や大社はほとんど訪れていると思う。

その私が、お寺にも神社に寄り付かなかった数年がある。
それは、訪れた多くの寺や神社は、亡き家族と共に訪れたものであったからだ。
飼い犬のチワワをリュックに忍ばせ、全国のお寺や神社を回った。

その時、文字通り、神も仏も失った。

宗教の現在のあり方には様々な疑問がある。
本来の哲学を失い、ただの冠婚葬祭業にしか見えない場合もある。
だが、その哲学は少しも色あせてはいない。
人間はそれほど変わらないからだ。

そして時間の経過とともに、少しずつ神や仏と和解出来るようになった。

日蓮上人や親鸞聖人らの人物像は面白い。
密教系の道元などと比べ、やはり、庶民派の高僧は、人懐っこくてある意味ゆるい。
愛欲にも寛容だ。
日蓮宗や浄土真宗が庶民仏教であるのは、彼らのそうした性質ゆえのことだと思う。

妙龍寺2


お寺が幼稚園や高齢者施設を併設している場合も多い。
それは、お寺がその地域の文化を担っていた証拠である。

また、お寺が人々の避難所として機能していた面もある。
縁切寺

ははっ、古いね。

妙龍寺1


海外の多くの国では、精神科救急の施設をクライシスセンターと呼ぶ。
社会精神医学での精神疾患の解釈、
『精神症状をその人の人生の危機(クライシス)と捉える』
ゆえに、ついた名前だ。

手の付けられない状態に陥る前に、自ら進んでそこに行き、短期間で回復していく。
病名が付く前に、回復していくから、その地域での統合失調症の発症頻度さえ低下していく。
オープンダイアローグの地域が統合失調症の発症頻度そのものが低下していくのと同じ理由による。

精神症状を脳の異常と捉え、薬で押さえつけ、悪化させ、破滅的な方法を取らざるを得ない現状と何が違うのか。
それを考えていけば、おのずと答えは出るではないか。

お寺にその機能の一部を担ってもらうことが出来たら良いなあと。

そんなことを考えながら、来月の神戸のサード・オピニオンは、お寺での開催です。
サードオピニンオン(精神疾患)相談会・対話会in神戸

神戸チラシ