*大阪・名古屋でのサードオピニオン会、7月12日岡山 ひきこもりの親の会、出雲、大分、佐賀、長崎で勉強会開催します。詳細は文末のリンクから。

人権侵害は、誰かが誰かを支配しようとするときに起きる。


そして収容所の病理は、その閉鎖的な空間により、強烈な支配と非支配の関係性を生む。
より権威的な人間は権威的になり、受け身の人間はより受け身となる。
これは、なにも精神科病院だけで起きることではない。
それは、そこらじゅうの家庭でも、学校でも、職場でも起きる。

また、コントロールとは力によるものとは限らない。
言葉によったり、同情を誘うなどの手段を用いる場合もある。
親は大事にすべきだなどという社会通念に乗っかって、相手をコントロールしようとすることもある。
いずれにせよ、自分の思い通りにしないと気が済まない。

最近、このコントロールってのに凝っていて、
様々な局面において、誰が誰をコントロールしようとしているのかと考えるようになった。
同時に、自分の言動においても、他者の自分に対する言動においても、それがコントロールになっていないかに気を付けるようにもなった。

社会精神医学では、精神症状は環境や関係性の中で引き起こされる正常な反応と考える。
様々な関係性の中でも、一番、人を抑圧し、追い込むのが、一方的な他者からのコントロールだと思う。
この精神医療問題を突き詰めると、結局、日本的縦社会の軍隊的な組織の問題に突き当たる。

効率化、リスク管理を目的とした会社組織における階層構造。
近年の学校教育による子供の管理。
もっと言えば、最近の国の政治も、その管理を強めているように思う。
精神科病院については説明するまでもあるまい。
共通しているのは、少数による多数管理のシステムであることだ。

こうしたシステムは、人を効率よく管理しようとするシステムである。
同時に、多様性を認めず、画一化を求める。
こうした組織が必要な場合もある。自衛隊や警察組織といった高い規律尊重の必要がある場合、高品質での大量生産の現場などである。
だが、近年の精神疾患概念はどうだろう。
いまや、社会全体、国民全体が管理対象とされつつある。
行動や思考の違いが病気と捉えられ、狭められた正常の範囲からはみ出たものは精神疾患患者と扱われるようになったと言えないだろうか。

イタリアの精神病院解体において、重症患者の目標とされたのは、当事者が、自分の人生を自分で決めて良いということに気が付くことだった。
それは、ほとんど廃人と思えるような人々が、少しずつ自己決定力を取り戻し、自己管理する(して良いことに気が付く)ことにより、人間性を取り戻していく過程だった。
そのために必要だったのは、医療を頂点とするヒエラルキーを廃することだが、それは上位者から下位者への支配をやめることでもある。

オルタナティブモデル
勉強会に参加してくれた研修医(精神科志望)は、仲間の医師に「薬が病気を治すと思っているか」と聞けば、多数は思っていないと反論してきた。
思っていようがいまいが、患者側が、
「良い医者を探す」
「新たな病名を探す」
「減薬してくれる医師を探す」
などと考えていることを容認するならば、この左のヒエラルキーにどっぷり染まっているということに変わりはない。

イタリアの精神保健改革は、バザーリア達、医療側が「自分たちは無力だ」と自認し、患者と共に解決を模索する方法を選んだ。
その第一歩が、このヒエラルキー構造を排することでもあった。
医師たちは、地域の人たちと一緒になって、チームで問題解決にあたることを選んだ。

家族セラピーやオープン・ダイアローグセラピーは有力な方法だが、これらのセラピーのベースにあるのも、医師を含めたサポートチームの対等性である。
左のヒエラルキー構造を捨てられない我が国にはあまりにもハードルが高い。
こちらの特徴は、利用者(あえて患者ではない)一人に対し、チームで対応する。

一見、不経済に見えるこのやり方は、長期に見れば非常に効率的となる。
左の患者は、そのまま管理対象の一生障害者であり続けるのに対して、右の利用者は、立派な労働力を提供するようになる。

自死対策においても大きな違いがある。
医療モデルでは、希死念慮を強引に消すことに躍起になり、極端な話、物理的に自死が出来なくする環境に隔離し、薬で無理やり抑える方法がとられる。
しかし、右のモデルでは、チームで対応し、希死念慮が消えるまで直接365日24時間目を離さず関与し続けるのだ。
どちらが、効果があるのかは明白。

これは、児童福祉施設でも、高齢者施設などの福祉施設でも同じである。
発想の大変革が必要。

勉強会・サードオピニオン会の予定