精神科治療学、DSM批判の中安医師の寄稿文を読んで強く意識したことがある。

感じず考えない人に陥っているのは、何も精神科医だけではない。
それはそのまま我々日本人全員に当てはまる。
私を含めた被害者だって同様だ。

当たり前の悲しみや苦しみが、病気ではないこと位、我々はもともと知っていたのだ。

この精神医療のデタラメは、この社会の鏡でしかない。

裁判をやってみればよーく分る。

弁護士も、裁判も、厚労省の被害者救済制度も、みんな感じず考えていない。
何度も踏みつけられる度に思う。

「もっとちゃんと考えてみろ。」

多剤大量処方がダメなことなんて、最初から分かっていたことだろう。

薬が単剤で治験されていること。
単剤の治験で用量が決められていること。
薬を代謝する肝臓や腎臓は、皆、一つしかないこと。

このいとも易しい命題を何故にこんなに苦労して説明せねばならないのか。

その理由は明白である。
誰も、自分で感じず、考えようとしていないのである。
泣けてくる。

その日まで、普通に歩き、普通に会話していた女性が、多量の精神薬を投与され、不当に一年間、病院に入院させられ、出てきたときには車いすで生活する状態に追い込まれた事案がある。
この女性には、その日まで精神科の受診歴はない。
精神科のデタラメを悪用した犯罪である。
悪意を持って、精神薬を投与し、精神病のレッテルをはり、不当に入院させたあげく、障害者にされたことは明白である。わたしも、カルテや証拠をチェックしたがもはや明白である。

もう一つの例は、母親から娘を引き離した末、生活保護を受給させ、薬漬けにしたあげく、アパートで孤独死させた事例がある。
血液検査の数値は最悪、腎臓も肝臓も心臓もぞっとする値である。
カルテには、(水中毒で)死ぬかも知れないとの記述まである。

皆さんは、こうした事例が裁判に持ち込むのにひと苦労することをどう思うだろうか?

裁判所も、弁護士も、被害の証明に医師の診断書が必要だという。

おいおい、ちょっと考えてみろ、
ここに、麻酔量を遥かに超えた量の薬の投与の証拠があるじゃないか?
酷い数値の検査結果があるじゃないか?
退院後歩けなくなって、ずっと車いすで生活しているじゃないか?
正常数値を遥かに超えた数値が出ているのに、多剤大量処方を続けているではないか?

おまいらの目は節穴か?
目に見えているのはなんだ?
ちょっと考えてみればわかるだろう?

裁判の為の被害を診断してくれる医師が、この日本にどれだけいるというのだ。
それが居ないから苦労してるんじゃないか?

被害者は、最初の被害のあとさらに何度も被害に遭う。

そうした経験を経て、被害者は、精神医療のデタラメさが、社会の鏡であることに気が付くのだ。
中安医師の言葉を借りれば、
感じず、考えなくなったものは、そのProfessionalityを失っているのだ。

政治家も、役人も、警察も皆、同じ。

今の私は一般の人より薬に詳しい。しかし、それは、ここ数年、医薬品添付文書を何度も読み返し、薬理の教科書や論文を読み漁ったからだ。

その過程で、私は大きな2つの可能性を発見をした。

一つは、抗てんかん薬とビオチン欠乏により引き起こされる薬害の可能性。
もう一つは、抗精神病薬により引き起こされる糖尿病と膵炎の可能性だ。

ほぼ間違いないと思うが、これを主張しているのは、世の中で私一人なのだ。
別に難しいことを発見したのではない。
被害の側面から、そこに取り組んだのが私だけだという事だ。

私に医師免許があれば、臨床でそれを確認したい。
学会で、論文に仕立てて発表することも可能だろう。
しかし、このままでは、結局、私の一人芝居で終わるだろう。
恐らく、海外で誰かが気づき研究してくれることだろう。
(もうあるかもしれない。その気になればだれでも気が付くことだ。)

感じず考えない人々になにを言っても無駄である。
感じず考えない専門家は、自分で考えることはないからだ。
だから一生、私の言ってることは理解できまい。

もう一度、中安医師の言葉を引用しておく。

「感じず、考えない人」とは世間一般においても「忌むべき存在」であるが、精神医学を体現しているはずの精神科医がそういう存在に成り果てているのであれば、精神医学そのものの信頼性まで失われるのは当然であろう。

この精神科医を他の専門家に置き換えても、そのまま通用する。