(前記事にコメント頂けた方ありがとうございます。)

取材を受けたジャーナリスト。
なかなか肝の据わった方でした。ある事案を追求し、TV放送して、逆に裁判まで起こされたことがあるそうです。なかなか面白い話でした。

前のコメントにもありましたが、精神疾患そのものに対するポイントが無いことについて、
ジャーナリストからも、じゃあ代替案はどう考えるのかという質問があったので、コメントの返事の代わりに、それについて書いてみようと思う。

うつ病、不安、強迫症。

かつてのうつ病は、中年、老人性の病気でした。
古い抗うつ剤は、もともとそのうつ病の薬です。そのうつ病とは、本当に何も出来ない状態を指しました。起き上がれず、病院に通院できないほどの症状を指していたということです。

その定義が大きく拡大解釈されて今のうつ病の定義があるのです。
ただ、色んな方々の話を聞くと、若い人でもうつ状態になったとの証言を聞きます。
歩いて通院しているのであれば、それは、かつてのうつ病ではありません。

正直、そこは、私には判断出来ないのです。
ホントのうつ病があるのかどうか。

前記事に、その視点が無いのはその為です。

ただ、確実に言えるのは、本当のうつ病があるとしても、治療対象となるのはわずか10人に1人もいないという事。そして、抗うつ剤は、飲み続けて良いものではないということです。

代替案は、10人中9人はほっとけということです。
「大部分の精神疾患は、そもそも、医療の範疇で扱うものではないと思っている。」
ジャーナリストの質問にはこう答えました。

・人間関係の問題
・環境の問題
・生活習慣の問題
・内科的疾患
・ノイローゼ神経症

これらの原因を除外して初めて、治療対象の精神疾患があるのかどうかが問えると私は思っています。


私自身の事をいうと、

電車に乗ると貧血を起こした。
心臓が痛い。便秘。
喉に何かが詰まっている気がする。
大勢の人の前で話が出来ない。
苦手な人のいる客先に行く日は、ずっと胃が痛む。
(のちに十二指腸潰瘍と診断された)

こういう経験ならあります。殆どが思春期から20代でのことです。
ほぼ10数年に渡ってこうした症状が続きました。
特に胃薬は、手放せませんでした。

今では、こういう症状は全くありません。
目の前に100万人居ても、あがらず話す自信さえあります。

自己分析すると、やはり、人の目を過度に気にしたり、失敗を恐れていたのです。
私の人生は、失敗の連続です。
しかし、今から思えば、あの失敗の数々を経なければ、今のこの精神状態は得られなかったと思うのです。

良くも悪くも、開き直った。
場馴れをした。
もしくは、年齢と共に鈍感になった。

ということです。

その時の苦しさは、結局、私にしか分からない。
うつは、本当に苦しいのよと言われても、その苦しさは、他人の私には分からない。
もしかしたら、私の方が苦しかったのかもしれない。

それは、誰も分からないのです。
本当の精神疾患であるかないかの議論は、不毛です。
理解がないと騒いだところで、分かりようがないのです。

人間は、自分の事と比較して、察する事しか出来ないのです。

ましてや、医者になどわかるはずがない。
分からないことをわかったふりをして劇薬を投与するなんて、そもそもあり得ない。

中には、薬の恩恵を受けたという方がいます。
しかし、それは、根拠のある診断で、根拠のある投薬をされたわけではありません。
いずれにせよ医師は、とりあえず出してみたことには変わりはありません。

この議論はとことん不毛です。
分からないとしか答えられません。
(議論すること自体良いとは思えません。)

百歩譲って、治療の必要な精神疾患があるとしましょう。
ただし、その人がその対象であるかどうかは分からない。
(急性期の症状を除いての話です。)

ならば、薬で試してみよう。
診断はやらないで、薬を出してみよう。
(どうやらこれが、次期DSM5の内容らしい。)

DSM5は、ある意味、精神科医が診断が出来ないことを認めたのではないか。だけど薬は出したい。
診断の議論が不毛なことは、精神科医が一番わかっていることではないか。

そうならば、もう末期症状ですね。

表題の疑問は、人類の有史以来の不変のテーマです。
人類はまだ、その答えを持っていないのです。

その議論は不毛です。確実に分かっているのは、医療にもその答えは無いということです。

分かっているというフリが一番腹立たしい。