ひたすら耐える。
耐えることは得意である。
若い頃は、よく胃潰瘍になっていた。
人は、プライドが傷つくと心臓に来て、我慢をすると胃潰瘍になるそうだが、
今は、どちらにもならない。
僕の心は傷つかない。
いや、傷つくことに慣れっこになったのだ。
ナイーブだった自分は、もうここには居ない。
最近は、面の皮の厚い人間と思われて居るかもしれない。
ふと、自分が不感症になったのではないかと心配になる。
傷つきやすかった記憶はあるが、今の僕に、人の痛みを感受できる能力は無くなっているのかも知れない。
だが、過去のあの事件は、僕の心に消える事のない深い傷をつけた。
痛みは和らいだが、傷は深く刻まれたままである。
あの痛みや哀しみを知れば、日々の生活の痛みや哀しみは些細な物としか感じられないのだ。
さらに問題なのは、今までの自分を支えてきたキャリアや地位までもどうでも良くなってしまったことだ。
都合良く、自分を正当化する事が出来なくなってしまったのだ。
殆ど、社会不適合者だ。
かつて暮らした町には、6年たった今でも近づけない。
近づけば、また心が酷く痛む。近づくのが怖い。
これは、一生消える事は無いだろう。
これがトラウマというものだろうか?これがPTSDというものか?
僕は、トラウマと戦っているのかもしれない。
それは、決して忘れる事ではない。
裁判をやれば治ると言う事でもない。
なんとか、生きて行く方策を探しているのに過ぎない。
これを治療と呼ぶか?
いや決して治療などではない。
傷を治そうなどともう僕は思わない。
傷は、もう僕の一部だ。
トラウマとどう付き合って行くいか。
その方法を見つけることでしか、楽にはなれない。
それで良いのだと納得することにした。