最近の猟奇殺人の惨さに身の毛もよだつ気持ちになるが、今回の大阪2児放置死に関しては、ほんとうに具合が悪くなってしまった。僕が病気になりそうである。
もう可哀そうで仕方がない。
せめて、路上に放置してくれた方がマシだ。
哺乳類以外の魚類でさえ、同類の子供は守ろうとする。
子供を保護しようというのは、本能として備わっているはずではないのか。
ベテラン看護師の友人と話したら、
「母より、女でありたい人に多いと思う。」
と言っていた。それはその通りでなのであろう。
だが、そんな人は沢山いる。
あのような事態に至るには他の原因を探らねばならない。
僕がかつて世話をしていた母子家庭の母娘がいるが、その母親もあまりの子供の元気と悪魔っぷりに虐待になりそうだったと言っていた。
2歳と1歳、大変であることも、間違いない。
けれど、今に始まったことではない。
大変だが、普通の当り前の事でもある。
最悪かつ最低の選択をしてしまった。
放置する前に色々な選択肢があるはずであるが、知るすべがなかったのか、知ろうとしなかったのか。
孤立してたのは間違いない。
このブログでも何度も書いているが、
精神医療問題も介護問題も教育問題も、全て同根だと思っている。
そして、この悲劇をゆるしたこととも同根である。
堺屋太一氏は、著書『凄い時代』で、この都会集中の核家族や一人暮らしが、大量生産大量消費社会にとってもっとも効率の良いシステムであったと言っている。その通りである。
しかし、この長く続いた大量生産大量消費社会は、地域コミュニティを徹底的に破壊した。
コミュニティが壊れた結果、全ての事を核家族内だけでこなさねばならない。
こなせない場合は、金でサービスを買うしかない。
ちょっとしたピンチを受け止めてあげられる力が周囲にない。
この事件に対して、死なせるくらいなら面倒みるのにという声は物凄く多い。
なんとか、この面倒みる人達と孤立した母子家庭をつなぐ手立てはないだろうか?