来週ついに提訴します。
亡き妻の死の責任を問う民事裁判。
新聞の社会面で大きく取り上げてもらう予定でしたが、製薬会社から訴えられるリスクを負えないという理由で扱いが小さくなってしまいました。
せっかく顔出しする決意までしたのに残念です。
そして、腰の引けた新聞社には失望しました。
一体、何のためのマスコミでしょう。
提訴をするという事実をそのまま報道することさえ出来ない。
裁判自体は、互いに併用注意の薬を10種以上処方し、厳重な管理の基で使われるべき麻酔成分の併用禁忌の睡眠薬を処方し、さらに無診察でそれらの薬をを処方した医師を提訴するという非常に単純なものです。
製薬会社を訴えたのではなく、一医師の医療上の過失を問う内容に過ぎないのだが、その直接の死因となった薬の販売元の製薬会社に気を使って、大きくな記事として扱えないという。
ほんとにダメだね。
ほんとにこの国は、おかしなことになっている。
このままでは、かつての清が、英国のばらまいたアヘンで国がぼろぼろにされたのと同じことが起きてしまう。
国も医者も製薬会社も、いまさら間違いを認める事の出来ないほどの深みにはまっている。
恐ろしいことに、裁判の準備をしていく過程で、僕はこの闇に気が付いてしまった。
どうする?どうする?
何度も何度も、心の中で問いかける。
先は、茨の道だ。
医者を訴えることで、医者に責任転嫁をする気はさらさらない。
裁判をすることで、免罪符をもらえるわけでもない。
死ぬまでこの十字架は背負って生きていく以外にない。
だが、それは、過去に縛られて生きるということではない。
背負って行く。
背負って前に進むということだ。
亡妻のご両親は、まだ亡くなって間もない頃に、
「まだ若いのだから、次の人を見つけてね。」
と仰ってくれた。
亡妻の祖母は、裁判を一人で進める僕に、
「ありがとう。」
とお礼を述べてくれた。
この裁判は、そんな優しい心遣いに報いる為の僕に課せられた最低限の義務だ。
これを果たさねば、それらの言葉を受け取ることさえ出来ない。
けじめと呼ぶのが一番似つかわしい。
それでも、一歩一歩進んでいく毎に、また問いかける。
もういいかな?と。
どう思う?