僕の人生は、ともかく逆張りである。


THE  天の邪鬼(あまのじゃく)


単なる批評で終われば良いのだが、それでは満足しない。

身を持って経験するまでつっ走るのである。


だから、大失敗をする。

取り返しのつかないことも沢山ある。

逆に、だから社長をやってるという面もある。

その結果として、いい歳こいて一人暮らしなのである。


AV監督の村西とおる氏が、ロイタープレジデントのコラムで、

(前科7犯、借金50億を抱えて)

「苦しいときほど、自分の本当に欲しいもの、やりたいことを考えるナイスなチャンスなのです。」

と書いていた。


同じコラムで、サイバーエージェントの藤田氏が、

「お金より大切なこと」という題で、お金のことを書いていた。


前者は、無さすぎて気づき、後者は有り過ぎて気づいたところが対照的で面白い。

村西とおる氏の方が、説得力はあるように感じるのは、時代が村西氏の経験に重なりつつあるからだろう。


今必要なのは、成功者の話ではない。失敗者の再起の話の方が有用だ。

藤田氏の心境にはなかなかなれないが、村西氏の心境になるのは比較的容易だ。


僕の天の邪鬼人生において、金に困ったのは1度や2度ではない。

社長になってからも、ずーっと困っていたといっても過言ではない。


人と違うことをやると、必ず叩かれる。


そのたびに聞いてきた。

「何で?」と。


大抵の答えは、それが、

「常識だから。」

である。


その’常識だから’という言葉は、僕には禁句である。

それを聞くたびに逆こうし、さらに逆張りをした。


この性格は、治っていない。

おとなになって、感情を押し殺す術は覚えても、これは改まらない。


常識なんてものは、人間が都合よく作りあげたものだと僕は思っている。

だから、いくらでも都合よく変化する。

(養老タケシ氏も人間の作ったものは信用するなと言っている。)


だから、声高に’常識’を語る人は僕は嫌いなのだ。


常識という言葉を隠れ蓑にして、自分の都合を語っているに過ぎないと感じてしまう。

最初から自分の都合として語ってくれれば、僕も聞く耳を持つ。


正直に自分の欲望を語ってきたが故に、社会不適格者の烙印を押される。


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そうして、ずーと、闘って来たのだが、


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もう、どうでも良くなってきた。


世間様の’常識’が音を立てて壊れて、皆が新たな’常識’を模索し始めた。

もう、’常識’を疑う必要がなくなった。


そうした意味では、今はとても心地よい状況なのだ。

どうせまた、都合のよい常識が形作られるはずだが、今度は僕にとっても都合のよい常識になるはずだ。

(それまで生き延びられるかは微妙だが。)

意に反した結果になったなら、今度は’鬼’になるだけだ。


偏り過ぎた’お金’や’信用’の常識がガタガタと崩れ始めた。

中国式の占いでは、お金や財産は、人間の社会生活を形作る要素の中で、高々、5分の1を占めるに過ぎない。

都会では、お金がないと楽しくない。

これは、西麻布男前店の店主のかつてのセリフであるが、もう彼も僕も、それが壊れつつあることは、じゅうじゅう承知だ。


異端児も異端児だらけになれば、もはや異端児ではない。