(長いです、携帯では辛いかも)
ITの仕事をやっていると、効率化こそが最大の目標となる。
今、その’効率化’こそが、この不況の原因の一つとなっている。
’効率化’は善か?
本来、便利になることは悪いことではないはずだ。
工業生産の効率、
食糧生産の効率、
流通の効率、
はたまた、家事の効率。
全てが、劇的に向上した。
昭和20年代のレベルと比べれば、家事にしたって倍以上、農業でも数倍、工業など数十倍の効率を実現している。
単純に考えれば、効率が上がっただけ、人間の生活は向上するのが当たり前である。
そして余った時間と力を、人間は、人間にしかできない仕事に費やせば良いはず。
不況といえど、日本人の生活は、世界のトップレベルであることに変わりはない。
問題は、人間にしか出来ない仕事まで、国際化という名のもとにアウトソーシングしようとしていることだ。
人間の仕事を機械やコンピュータのやらせる効率化は’善’だが、が、人間の仕事を人間に押し付ける効率化は’悪’だ。
職業に貴賎なし。その言葉を聞かなくなってから久しい。
シンガポールは、ゴミ一つ落ちていない国。ガーデンシティなどと言われている。
シンガポールに仕事で行くと、本当に清潔な国であることを感じる。
だが、綺麗であればある程、ゴミは沢山出るはずである。
ゴミはどうしてるのか?と現地の人に聞くと、ゴミと性欲は、マレーシアに捨てに行くという、笑えない話を聞いた。
また、家政婦(メイド)の文化があり、インドネシア人をメイドに雇っている。
隣の田舎国マレーシアとメイドの供給国インドネシアがなければ、あの国の生活は成り立たないということだ。
同じようなことが、日本でも起きている。
人、物、金を途上国から搾取し、都市文明を謳歌するということだ。
欧州諸国と比べても、都市化においては日本の右に出る国はない。
これほど高度に効率化されたシステムを持つ国は、他にない。
それが、今まで製造業において高度成長を支え、工場の海外移転に伴い国際分業という名のもとで成長を続けた。
日本が世界で一番GDPが落ち込んでいる理由は、無駄が少ない分、売上の減小が直接景気に反映されているからだ。効率的だからこそ、落ち込んでいるのだ。
効率化された社会は、全てが金(マネー)を基準として動くようになっている。
教育や介護まで金で規定されている。
こうなると、金が無くなると悲惨である。
一見、効率的に見えるこの日本のシステムは、全て金で規定されているが故に、経済危機で簡単に崩壊するように出来ている。
そのことが、今身に染みて感じられる。
仕事がないが、介護士は足りないなんて、おかしな事が起きている。
介護の仕事が、きつい上に給料が安いからだという。
資格がなければ介護出来ないなんてシステムがおかしい。
最大の問題は、コミュニティの崩壊にあると僕は考えている。
僕の会社の役員に、中央区の元PTA会長がいる。
彼の住まいは、築地である。
他の地域に比べて、中央区築地のコミュニティは抜群に良いらしい。
他から移ってきた教師は、まずそこに驚くのだそうだ。
地域がしっかりしているから、教育も介護も崩壊していない。
つまり、介護も教育も、家庭と行政の間に、もう一つ別のコミュニティがあれば、もう少しましになるということだ。
言いかえれば、仲の良い他人が傍にいないのが問題だ。
時間が余っている人が、買い物の手伝いをするとか、駅までの送り迎えをするとか、仲の良い近くの他人が出来ることは沢山ある。
ご飯を作るのに、3人前と4人前ではコストなど変わりはしない。
作り過ぎたおかずは、近所にもっていくのが当たり前の時代があったことを今の若い人たちは知らないのかもしれない。
遠くの親戚より、近くの他人。
(この言葉も随分聞かなくなった。)
この不況は、コミュニティの再構築をするには持って来いのチャンスである。
個別の問題を語る前に、コミュニティを健全化すれば、大半の問題は解決する。
’健全なコミュニティを構築しよう’こういう風に書くと、市役所の掲示板に書かれた標語のようで、気恥ずかしいが、本気でそう思う。
単純に言えば、人は顔の見える人をそうそう邪見に扱えないのだ。
地方分権大賛成だ。
国の役人には、要介護者の顔は見えない。
家と会社、コミュニティがそこに限られる生活はホントに危ない。
家か会社がダメになれば、それまでである。
僕には、参加しているコミュニティが、大きく分けて3つある。
一つは、会社。一つは西麻布のバー。もう一つは、サルサ。
最少単位たる家庭が無い僕にとって、このコミュニティなしに生活は成り立たない。
この3つのコミュニティに参加しているおかげで、あまり寂しい思いをせず、精神的にはすこぶる健康だ。
病気以外の人の悩みの多くは、思い込みやプライドで出来ている。
価値観は人それぞれということを知るだけでも価値がある。
会社での自分の立ち位置を知るだけでは、社会での自分の立ち位置が知れない。
会社がなくなればそこでおしまいである。
会社がなくならなくても、定年で終わる。
コミュニティとは、共同体である。
共同体は自然発生的なもので、移民国家アメリカのような組織ではない。
日本には、組織より共同体の方が似つかわしい。
ずっとそうして生きて来たのだ。
ヨーロッパもそうだ。
昨夜は、西麻布のバーに一時過ぎに顔をだした。
顔を見せた瞬間に他の常連客と従業員に、「遅い!!!」と怒られた。
まるで、来なけりゃ行けない義務があるかのような言い草だ。
その言い草は、理不尽ではあるが、とても温かい。
常連客の間では、次の常連が来ないと帰れないというコンセンサスが出来上がりつつある。
これも一つのコミュニティだ。
自発的に出来上がったコミュニティは、とても温かい。
自治体が言うような、あらかじめ用意されたコミュニティは、なかなか上手く機能しない。
(それでも、無いよりはまし。)
そして、共に過ごした時間が長ければ長いほど、強固な関係が築ける。
コミュニティでは、そこに参加したから、その恩恵を受けられる訳ではない。
金を払えば参加できるというものではない。
確かに、金を払えばその場にいることは出来るが、そこの住人になるには、それなりの役目を果たさねばならない。
先ほどの介護の話で言えば、コミュニティのなかに世話好きな人が居れば、随分と血の通ったものになるはずだ。世話好きな人は、世話をするのが幸せなのだから、大いにやってもらえば良い。
その世話好きな人が、困った時には、皆で恩返しをすれば良い。
(こんな当たり前の話を書くことにも気遅れする。)
主婦もサラリーマンも、それぞれ別コミュニティを持つことをお勧めする。
ミクシのような薄っぺらいのではもちろんダメだ。リアルなやつ。
それも出来たら、夫と妻は別々で。
近所の主婦仲間なんてのも、あまり良くない。
それでは、リスク軽減にならない。
同じような価値観では、いざというとき役に立たない(共倒れをする)ばかりか、優劣がはっきりするため無駄な競争心が起きる。
理想は、互いに見ず知らずの価値観の全く違う世代や職業の集まりが良い。
価値観の違うもの同士の集まりでないと意味がない。
価値観の違うもの同士の集まりの基本は、他者を尊重することが最低限の決まりである。
僕は、そこに溶け込むのに数年を要したが、もはや生活の一部である。
職業的には、医者もいれば、看護師も、サラリーマンも、公務員も、主婦もとにかくごちゃまぜだ。
この2つのコミュニティだけで、話をする人だけで、おそらく200人は下らない知り合いがいる。
もちろん、人によりその関係の強弱はあるが、そこに受け入れられれば、まったく新しい世界観が生まれる。
(おかげで、ネーちゃん店に行かなくて良くなって一石二鳥だ。)
そこには、30代はもとより40代、50代の独身の男女もウヨウヨいる。
(残念ながら、10代20代と接する機会がない。)
サルサなどは、間違いなく新しい世界を求めてやってきた人たちで埋め尽くされている。
金の話は出来ないが、その他のことなら何でもある。
恋愛が始まることもあるし、もめごとも起きる。
僕は、小学校を4つ転校した。
子供にとっての家庭以外の最初のコミュニティが学校である。
僕の経験では、転校生を最初に世話するのは、必ず不良だった。
不良には不良の役目がある。
(ちなみに男の初体験のお相手も大体不良上がりの女性だった。)
同じような家庭環境の子供を集めた学校では、多様な価値観が育たない。
僕は小学校、中学校は、絶対公立が良いと思う。
大人になれば、いやがおうにでも、金持ちと貧乏の家の差を感じる。
中学生位までは、ごちゃまぜにしとくのが、子供のためだと思う。
子供の世界だからこそ、不良(将来は893)との付き合い方を学べる最良の環境なのだ。
僕は高校まで全て公立だが、かつての不良のクラスメイトのおかげで、ヤクザの対処の仕方もある程度わかっていた。ところが、優等生と不良が別々のコミュニティで育つようになると、これはもはや単なる未知の敵となる。
未知の敵に対しては、手加減が出来ない。
本物の893とは、お付き合いしたくないが、残念ながらいつの世にも必ずいるのだから、少しは慣れておいた方が良いに決まっている。
塀で囲って生活しなければならないのは、特権階級の閉鎖的社会の金持ちである。
常に見知らぬ敵を相手におびえなければならない。
堀で囲まれた生活は、金が掛かる。
そして金がなくなれば、誰も助けてはくれない。
豊かなコミュニティとは、安心して暮らせるコミュニティということだ。
警官を増やすより、泥棒を減らせということだ。
国単位で見れば、かつての一億総中流社会が良いに決まっている。
上流と下流の間の中流が大きいのだから、軋轢が少ないのは当たり前である。
政治の仕事は、富の再分配それに尽きる。
本来、効率化により出来た時間は、より深く広く人と交わることに費やせば良い。
コミュニティが育てば、そのうち、互助機能が働くようになる。
その互助機能こそが、生活の最大のリスクヘッジとなるはずだ。
偏ったコミュニティーで純粋培養された大人には、かつての公立の学校のようなごちゃまぜのコミュニティが必要だと思う。
10世紀以上に渡って、階級が固定された階級社会の国が世界にはある。
(イギリスの貴族が背が高いのは、階級の交わりがなかった結果である。)
鍵をかけなくても生活できる社会と金持ちは警備員を雇わねばならない社会とどちらを選びたいか?
僕の答えは、もちろん前者である。
今、政治の世襲が問題になっているが、そんな議論がされるのは、とても良い傾向だと思う。
この不況は、本来は不況と呼ぶべきものではないのかもしれない。
必要十分に物は、皆持っている。
金が暴走した結果、人心が荒れ、その結果、不平等(格差)が拡大した。
世界で一番GDPがマイナスであるが、日本は、相変わらず豊かである。
相変わらず、世界で一番効率化が進んだ国である。
この不況は、単なる経済不況ではない。社会の構造不況である。
経済(金)だけ論じても何も解決しない。
コミュニティの日本語訳には、’共同体’を使いたい。
無理やり作って作れるものではない。
間違ってもアメリカ型の組織では、上手くいかない。
教育も介護も、地方にやらせればよい。
さらに言えば、もっと小さな地域コミュニティーまで、権限を委譲すべきだと思う。
互助会的な組織を支援する仕組みを推進すべきだ。
元々健康保険組合だって、ほんとはそうして出来上がったものだ。
顔の見える健康保険組合なら、僕も喜んで金を払う。
そう、顔の見えない仕事は、結局おざなりの仕事になる。
そういった意味でも、リアルなコミュニティを再構築せねばならない。
自由化、民営化の議論は空しい。
自由化すべきものもあるし、民営化(規制緩和)すべきものもあるだけなのに、一くくりにして良い悪いと言い合っている。
それより、まずは、地方分権である。
顔の見えるところに、権限を委譲せよ。