グローバル経済、資本主義、キリスト教を中心とした西洋文化。


今、問題になっているのは、この社会を形作ってきた西洋文化そのものである。

イギリスで生まれた搾取型資本主義が、ついに終焉に差し掛かってきたということか。


もちろん、今の日本が、西洋文化の恩恵を最大限に享受した国であることは間違いない。

西洋文化を否定したところで、東洋(かつての日本)文化が良いわけでない。

ただ、その悪い面が、一気に噴出してきたのだと思う。


西洋文化とは何だろう。


日本人は、民主主義とは、掛け値なしに良いものだと思っているが、これも西洋文化である。

もともと民主主義とは、支配層の多数決であったのだ。

多種多様な文化が存在する国にいきなり民主主義を持ち込めば、少数派は危機感を強め独立を計るのは、必然である。インド・パキスタンやユーゴの分裂(最近ではイラク)は、民主主義の押し付けの結果だ。

今の中国に民主主義を持ち込むと、大変なことになるのではないだろうか。


自然破壊も西洋文化の得意技だ。

ヨーロッパ諸国は、エコに積極的だ。

なぜなら、ヨーロッパには、もはや自然など何も残っていないからだ。

以前、日本の山林の半分以上が植林だと書いたことがあるが、ヨーロッパにおいては100%だ。

(もちろん、今の日本も同罪である。)

なんと川まで人工だ。

木を植えただけでは、森は復活しない。そんな単純なこともまだ理解できていない。

なにもヨーロッパの人たちが、地球全体の環境を考えて、エコを叫んでいるのではない。

もっと身近な自分たちの生活が脅かされているのだ。


教育問題と格差問題も西洋文化の弊害である。

私立高校の英才教育や公立の学校崩壊は、格差問題の根源だ。

(最近公立高校が盛り返してきたらしいが。)

町の治安の悪化も、格差社会の結果だろう。


個人主義も西洋文化発である。

個性を重んじることと反社会性は、表裏一体である。


結婚の概念そのものも西洋文化の輸入である。

(契約としての結婚は、明治時代に移入された。)

核家族、男女平等もしかり。

今の家族の在り方は、都市文明の家族モデルである。

都市文明は、男性中心社会。

田舎は、女性中心社会。

男女平等を声高に唱えたのは、欧米が都市化の進んだ男性社会であったからだ。

福祉が充実したのだって、もともと奴隷のように扱われた人たちがたくさんいたからだ。

その福祉予算も今では風前のともしびだ。


契約社会、これも今となっては、契約が終われば首が切れるとの資本家の為のものとしか言いようがない。

日本は、今まで、上手に、これらの西洋文化を取り入れた。

民主主義を取り入れる前に、既に統一国家であったことが幸いした。

これらの言葉尻だけとらえて、素直に信奉するのだから、日本人にお人よしが育つはずである。

日本国憲法がその良い例だ。

自然破壊についても、大半が利用しずらい険しい山林であったことが、致命傷に至っていない最大の理由である。

僕の頃までは、公立高校も少しも悪くなかった。

右肩上がりのうちは、核家族も結婚も年金制度もそれなりにうまく行っていた。

明治の開国以来、あの戦争を除けば、とても上手く行っていたということだ。


とても上手く行っていたのが、上手く行かなくなった。

上手く行っていないのだから、それに固執するのは、反社会的な行為である。

固執すればするほど、次の順応に遅れる。


なにも全部捨てろとは言わない。良いものは残して、悪いものを捨てれば良い。


こんなことを言ってる僕自身が、一番西洋かぶれした人間だった。

西洋が良くて、東洋が劣る。

そう考えてもいたし、実際にそう行動した。


今、ヨーロッパ諸国が自国の為にエコを叫んでいるのと同様に、僕自身も限界を感じてきたのだ。


西洋文化のもとで発展した科学技術は、人間を豊かにもしたが、同時に他国からの搾取や自然破壊をもたらした。西洋の搾取構造は、帝国主義時代から変わっていない。

(そうよくよく考えてみれば、メインプレーヤーは同じである。アメリカ、ヨーロッパ諸国、日本、そして大きな脇役たる中国。)


ここで、日本とドイツが最初に落ち込んで行けば、これは先の戦争の再現である。

将来を見据えたうえで、もう一度、取捨選択の必要がある。


移民を受け入れよう。

こんなことを言ってるのは、馬鹿である。

成長を続けないといけないという強迫観念に完全にとらわれている。


人口が減るのは必然であるし、自然の摂理である。

(日本は、明治以降の近代化の過程で人口を3倍以上に増やした。こんな先進国は他にはない。)

少子化は必然であるから、少子化対策とは、子供を増やすとか子育てを支援することではない。

いかに少子化の社会を上手く運営するかという事だ。


グローバル化した企業は、もはや国籍など無いに等しい。

日本発の企業であっても、現地で作り、現地で販売し、稼いだ金を現地において置くのであれば、それはもはや日本企業ではない。国民の利益と一致するわけではない。

グローバル企業そのものが、西洋文化の象徴である資本主義の申し子である。


企業が儲かっても、国民が豊かにならない。これが資本主義の行きついた先であった。

ビルゲイツ一人の総資産が、米国民の下位45%の資産を上回る。


もはや、意味不明である。

(その点、日本は、随分とまともだが。)


だが、デフレ社会では、今の資本主義は通用しない。

利潤追及するための利潤がないのだから。

皮肉なことに、サービス業の生産性を上げた情報技術によって、先進国のたくらみは世界の隅々の人の知るところとなりつつある。


情報革命は、少しだけ格差解消に役立った。


次の社会を表すイデオロギーは、まだ言葉さえ見つからない。


無理やり言うなら、’成長はよさようなら、生活よこんにちは’で無くてなならない。

僕は、生活インフラ関連は社会主義。

その他は、資本主義。

まあ、もともと日本は、もともと、それに近い国であったのだが、次の社会システムを構築するまで、民間ではなく国が関与する他仕方がないだろう。

国に任せるにのだから、その前に徹底的な行政改革は必要だ。

やはり、キーは、テクノロジーだろう。

利潤を追い求めるのではなく、生活の向上をもたらすテクノロジーだ。

救いは、テクノロジーにしかない。


国民の生活向上は、政治の責任である。


よくよく考えてもらいたい。


衣食住のうち、食と住が確保されれば、良いのだ。

田舎の農家が、少ない収入でもやっていけるのは、現金は、ただ贅沢の為に必要なものだからだ。

今の日本に食と住を国民に保障すると富があるかと問われれば答えは’ある’。


良く働いたものが、良い暮らしをするのは悪いことではない。

資本主義は完全否定されるのもではない。

グロ―バルに経済も同様だ。


だが、目に見えない所から搾取をし、表面上は平和やECOを推進する。

戦前の植民地政策と全く変わらない。

ダブルスタンダードを見誤ってはならない。


自分で出来ることは自分でする。

それが、国単位でも必要なことだろう。

国際関係においては、あっというまにルールそのものが変えられてしまう。

自給自足、鎖国せよとは言わないが、自分で食べる分は自分で作る。


自立してこそ、はじめて一人前。

当たり前のことだろう。


日本人の信じる国際関係や世界平和など、ただのナイーブな幻想にすぎない。


デフレで色んなものが変わる。

流石のゆでガエルも変わらざるを得ない。

個人個人の様々な価値観も変わっていくのだろう。


今、ほんとに仕事がない。

ほんとに多くのサラリーマンが、ただ机に座っているだけである。

けれど、電車が止まったり、電気が消えたり、食べ物がなくなっている訳ではない。


昭和30年代からずーっと続いていたシステムが崩壊する。

今、歴史の断絶点に到達しているのだと思う。


何度もいうが、これは単なる経済不況ではない、全世界的な社会全体の構造不況だ。


必ず変わる。