最近、作家、曽野綾子さんに興味があって、著書や雑誌の投稿をよく読ませてもらっている。


最近の彼女の文章には、今の日本(日本人)に対する苛立ちや不安、さらに怒りや絶望感までが滲み出ている。

途上国の支援活動を通じて、世界の実情を真のあたりにしてきた彼女だからこそ分かる、平和ボケ日本人の体たらくぶりに我慢がならないのだろう。


’戦争を知っていてよかった’とは、彼女のエッセイ集の題名だ。


そとの世界で、様々な厳しい現実を目にした彼女は、今のこの日本の平和も決して頑丈な土台の上に立つものではなく、いつ壊れてもおかしくないもので、生き抜くためには、もっと人々は苦しみ、もがきながら、哲学的にものを考える必要があるという。


そのとおりだと思う。


さらに、キリスト教徒らしい視点で、日本人は、与えられる幸せばかり知っていて、与える幸せを知らないという。

(彼女は決して博愛でものを語っているのではない。途上国への支援活動を通じて、その難しさは十分にご存じだ。)


この一文は、僕へのご褒美のような気がした。


他の経営者は知らないが、この仕事を続ける最大のモチベーションが、この与える幸せにあるからだ。

与えるというとなんだかおこがましいが、この給料を払うことの出来る立場にいることが最高に幸せなのだ。


世の中には、与えられる幸せを感じる人がいるのと同じように、与える幸せを感じる人がいるのだ。

僕は、確実に後者だ。

悪く言えば、ええかっこしい。愛情の垂れ流しとのそしりを受けることも多々ある。

貰うことより、与えたいのだ。


女性に対してもそう。


与える幸せを知っている女性は、得てして情深い人だ。

溢れる情を抑えきれずしばしば、現実離れをしがちだ。無理をしてまで与えるからだ。

とても、優しいいい女。菩薩のような愛情。

その愛情の向かう先は、家族にとどまらず他人さえ向かう。


保母さんや看護師さんに多い。


僕も一度、そういう女性とお付き合いしてみたいと思うのだが、これがうまくいかない。

与える.vs.与えるでは、どうも納まりが悪いのだ。


与える.vs.与えられるになる。その方が上手くはまるのだ。


面白いもので、1対1の関係においては、愛情もお金も一方通行になることが多い。

貸したお金も愛情も、与えたその人から返ってくることは少なくて、なぜか別のところから返ってくる。

僕も与えてくれる人には、なかなか返せない。


1対1の関係においても、きちんとしろというのは、もちろん正論。

だが、人間社会は、そんな単純ではない。


ところが、彼女が言うように、与えられることになれた日本人が多すぎるのだ。

権利を主張して義務を果たしていないと言い換えても良いかもしれない。


おいしいものを食べる、清潔な水が飲める、職場に行けばとりあえずお給料がもらえる。

年金も健康保険制度も、世界の大多数の人の常識からすれば、天国のような暮らしだ。

そんな、恵まれた生活が続くことの方が珍しいのだ。


戦争を知っていてよかったとは、今の日本人の生活が、幸運の上に成り立っていて、いつでも崩れさることを知っていると言いたいのだ。

彼女の言うとおり、いつまでも与えられると思うのは、大きな間違いだと思う。


与えられることばかり待っていては、この国は滅ぶ。

今の日本は、過去の蓄積と錬金術で食いつないでいるだけなのだから。

アメリカの錬金術も破たんしたが、日本の錬金術も同じく破たんするのだ。


錬金術とは、見せかけの金を作り出すことだけではなくて、人の役に立たない仕事で金を稼ぐ人の給料も同じだ。公務員においては、国民に与えるのが、公務員の仕事だ。


人に何かを与えるのが、仕事だ。


与えられることではないし、ましてや搾取することではない。