誰かが認めてくれるはず。
そう思って生きてきたが、実際は、誰も認めてはくれない。
さまざまな、人の悩みの根源はこの辺にある。
認められないからといって、不平を言い、怒り、悲しむ。
恋愛だって、仕事だってみんなそう。
私は、こんなに歌が上手いのになぜ売れないのだろう。
歌手志望の知り合いの女子の言葉。
自分は、こんなに素晴らしいのだから、認められて当然。
実は、皆そう思っているに違いない。
失恋の悲しみでさえ、よくよく心理を分析すれば、
こんなに好きなのに、あの人はなぜわかってくれない。
ということだろう。極めて自己都合。
自己愛が強ければ強いほど、逆に感情は豊かになる。
だから、深い愛を語ることは、自分の深い欲を語っているのに等しい。
よくよく考えれば、喜怒哀楽といった代表的な感情は、本当は誰とも共有できないのだ。
表情をみて、この人は笑っているのか、泣いているのか、怒っているかは推測可能であるが、その強弱を正確に測ることなど出来やしない。
この苦しみを誰かに伝えたくても、言葉では伝えきれない。
それは、人間が生まれ持った宿命。
そして、それは、当り前のこと。
わかってもらえないことを前提にせねばならない。
逆に体は、正直で、女が急に濡れなくなったり、胃潰瘍や心臓病といった、気持ちとは裏腹な様々な拒否反応が起きる。これは、なかなかコントロールできない。
もし、自分の彼女が濡れなくなったらしょうがない。さっさと諦めるしかない。
物を与えたり、おだてたりすれば多少の改善は見られることはあっても、一度乾いた砂漠には2度と水は湧かない。さっさと諦めよう。男と女が逆のパターンもしかり。
覆水盆に返らず。仕方がない。
こんな簡単なことに気がつくのに随分時間がかかってしまった。
いや、気がついていたが、受け入れるのに時間がかかったのだ。
よっぽど、自己愛が強かったのだと思う。
中年男は、太ったり禿げたりして、そのうち、その悲哀にうち勝てるようになる。
基本的に、気持が伝わらないことを前提にすると、感情を表す言葉の存在意義は大きく損なわれることに気がつく。仕方ない、それでも、時間をかけてゆっくり伝えていくしかない。
つたない言葉と行動で。
他人とのコミュニケーションの主なツールは、言葉と行動なのだが、そこに時間軸を加えねば、理解は深まらない。
大切な人に自分を知ってもらうには、十分な時間をかける必要がある。
学生時代の友人や職場の同僚に、よき友人が多いのは、その辺に理由があるのだろう。
あけっぴろげな人が、僕は好きだ。
なぜなら、随分と時間が省略できる。
秘密の多い人間ほど、やはり時間がかかる。情報は多ければ多い方が良い。
でもね、秘密が多いからといっても、さすがに数年間を共に過ごしてくると、その人となりについてはある程度伝わってくる。長年の自分に対する言動を知っているから、僕に対する感情もかなりの部分まで推測可能。
積み重ねてきた信頼感は、そう簡単に壊れやしない。
これぞ時間のなせるわざだ。
だから、心配はいらない。
おねーちゃん方にもお願いしたい。まず時間を共有しないことには、なにも始まらないのだよ。
なんのこっちゃ。