経営者となって一番良かったことは、自分のことは自分で処することができることだ。


僕はサルトルのいう「自由の刑に処されている」状態だ。


ところが、世の中の大半の人は、様々な枠組みを求めて生きている。

大会社に努めたいとか、資格が欲しいとか、結婚したいも人々が枠組みを求めている証拠だ。

わざわざ、自由を自ら放棄しているのだ。


僕にとっては、他人の価値判断の中で生きることほどしんどいものはない。

だから社長を職業としている。

安定より自由を選んだのだ。


放棄した自由の代わりに求めるのは安心感だ。

安心感を得るために、皆、自由を放棄しているのだ。


そうか、ブランド品を買うのも、その正体は、皆と同じものを買っていれば安心という安心感の現れなのか?


問題は、その安心感の正体だ。

こうした混沌とした社会状況になると、その安心感の根拠が一気に崩れる。

さらに言えば、安心感とは未来の安心感のことだ。不安。

(この状況に及んで、さらに人々の不安をあおって商売をする輩が増えないことを祈る。)


サルトルのいう「人間は、皆、自由の刑に処されている。」とは、未来とは不定であると言っているのだと思う。

確実な未来など存在しない。確実な未来があるとすれば、それは既に現在だ。


養老孟司も言っている。


明日することが決まっていることは、未来ではない。それは現在だ。


僕は自由といっても、それでも色んな枠組みの中で生きていることに変わりはない。

日本に住み、日本人として生きていることもその証拠。
実は、皆と大差はない。


枠にはまって生きることの方が安心感を感じやすい。

それはそのとおりだと思う。


ただし、現在起きているのは、その枠組みの崩壊だ。

その証拠に、僕が今まで無視してきた枠組みが、案の定崩れてきている。


人々が考えるスピードより、現実は遥かに早いスピードで進んでいる。


想像を絶するとはこのことだ。


これからは、皆が自由の刑に処せられる。

(僕的には、みなさん、いらっしゃいませって感じなのだが。)