移民受け入れに賛成ですか?


僕は反対です。

(ちなみに国際結婚にも半分反対です。その僕が、馬鹿外人の作った子供の面倒を見てるのだからおかしな話。)


人それぞれの判断は、自身の愛情の意識の範囲をどこまで広げるかによる。


個人>家族>知り合い>地域>国>アジア>世界。


僕の愛情のMAXは、国です。


僕の若いころは、博愛でした。のべつまくなく、愛情を垂れ流した。

会社でもそう。


個人>課>部>会社>業界


そこでの、僕の立ち位置は部または会社だった。

個人よりも課、課よりも部、部よりも会社の利益を優先した。

すると困ったことが起きる。

課と部、部と会社の利益が相反することが起こるからだ。


さらには、同僚の中には、


家庭>会社


で、会社より家庭を優先する人間もいるわけだ。

彼らは、立ち位置が会社にないから、働かない。

家庭の幸せは、諸悪の根源などという独身の友人もいた。

サラリーマン時代の僕は、とても忠誠心の高いサラリーマンだったわけ。


ところが、いざ会社の社長になると考え方が一変する。

食わしていける人数に限りがあるからです。

自分の能力と社員の能力の範囲でしか会社は存続できない。


そこに博愛などと言っている余裕はありません。


そこで気がついたのは、

まずは自分、自分が足りて初めて隣の人、隣の人が足りて次の人となった。

自分の面倒が見れない人間が、博愛を語っても何の意味もないことに気づかされたわけ。


実際にできることでしか、愛情は表現できない。

だから、愛情の垂れ流しはやめ。

中途半端で終わるなら何もしない方がまし。


同情するなら金をくれってのはまさに明言。

社長の社員への愛情は、快適に働いてもらい、沢山給料を払うこと。


結局、どれが欠けてもダメってことだ。
その調和の中でしか人間は生きられない。


会社があってこその個人

個人あってこその会社

同じように、

国あっての個人

個人あっての国


どちらが欠けてもだめだ。

国益に反する個人は、排除されてあたりまえだ。


サルサの世界にいると、ラティーノ好きの女性にあいます。

それはそれで個人の自由です。

自分に経済力があり、その外国人の面倒を見る。もしくは、自分がパートナーの外国に行くならそれでよし。

ですが、国益に照らせば微妙です。

日本のために働かない外国人が、日本に居るのは、国益に反する。

博愛主義者たちからは、人類愛が足りないといわれそうだ。

だが、博愛を語れるのも、この豊かな日本に生まれたおかげなのに気がついていない。

博愛から生まれるものはあまりにも少ない。


前にも書いたが、六本木の路上にたむろする、アフリカ系の男たち、スーツを着て、金のネックレスを付けて客引きをする。まるで昔のニューヨークのハーレムのギャングのようだ。

彼らは、この国に住み、日本語を覚えることより、この国の中に自分たちのコミュニティーを作ることに一生懸命だ。だんだん六本木に行くのが嫌になってきた。


郷に入らずんば郷に従え。それならよいのだ。

移民に積極的だった欧州諸国は失敗している。

ちょっとした金持ちでさえ、ガードマン付きの家に住むようになっている。


インターネットの普及は、世界を急速に縮めた。知的労働者は、国を超えることさえできる。

そうした知的労働者が選ぶのは、治安の良い機能的な都市だ。


お金は高い方から、低い方に流れるのだ。

治安もしかり。


労働力不足など嘘だ。

みんな大して働いてはいない。そういうと語弊があるが、大して役に立つ仕事をしていないということだ。

科学技術が進歩しているのに、労働時間が変わらないってのはおかしい。

無駄な仕事をしている証拠だ。効率を上げれば問題ないはず。


僕は、治安の悪い国には、住みたくはない。

個々の外国人の人権は認める。だが、日本での居住権は簡単に認めるべきではない。


博愛は、足るものだけが語り、自分の力の範囲のなかでのみ実践することを許される。


それにしても、この国はとことんついていると思う。


いつまでも、移民をぐずぐずと渋っていたら世の中の方が変わってくれた。

経済も何にもしなかったから、一番傷つかないですむ。

(それでも、被害者は沢山でる。僕も他人ごとではない。)

アメリカの呪縛も、今後、多少緩和される気がする。


不況になるとグローバル経済はいったん縮む。

良い悪いに関わらず。

グローバル化のスピードも急減速するだろう。


今が考え直す最後のチャンスだ。

壊れたときが、再構築のチャンスだ。