一昨日のこのブログのアクセスが異常に増えた。
何でだろとアクセス解析をしてみたら、理由が判明した。
「武田菱」の記事に、「有名若手女優の流出ヌードあり。」見たいなコメントが入れられていた。
発見して、すぐに消去したら、また直ぐに同じコメント入れられた。
さらに消すと今度は、ずうずうしくもアメンバー申請してきた。
すかさず拒否すると今度は読者登録してきた。
シツコイ(怒)。
世の中には、こういう輩がいる。
彼らの脳みその構造はどうなっているのだろう。
善悪の区別は難しいが、この行為は、明らかに他人を不愉快にさせた。
人を不愉快にさせて平気な人物が世の中にはいる。
素の人間には、善の要素がもともと備わっていると言うのが、古い中国哲学の教えであるが、それは本当だろうか?素は善であるが、世の中が悪いから、悪化したのか?
何を考えてそんなことをやっているのだろう?
目的は、無論、金儲けの為だ。
罪悪感は無いのだろうか?
問い正して逆切れしたなら、彼の素は善だろう。
世の中の所為にするのも、素は善だろう。
行為は許せないが、同情の余地はある。
一番性質が悪いのは、’悪いことだと知らなかった’だ。
善悪の区別がつかないことだ。
誰でも、知らず知らずの内に、詐欺の片棒を担がされることはある。
逆に、良いことだと洗脳されて信じている場合さえある。
もっとも、良くあるのは、最初は疑問をもっていたにも関わらず、流されてしまうことだ。
無知には、悪意が無い分、余計に人を信用させてしまう。
人間、欲の塊だと思ったほうがしっくり行く。性悪説を前提にしたほうがわかり易い。
無知は、自分の欲のままに生きるのだ。
無知は罪を犯しやすい。
この競争を強いられる民主主義社会は、性悪説を前提として考える方が自然だ。
性善説は、よっぽど恵まれた社会でなければ通用しない。
性善説が、楽観主義とともに論じられるのは、そういうことだ。
法治国家の前提は、性悪説だ。
性善説には、本来、法律は必要ない。
日本人は、やはり民主主義の基本を勘違いしているのだろう。
江戸時代の武士は、儒教をもって教育とした。
性善説をベースに、善を伸ばすように教育されていたのだ。
今の日本人より性善説を前提に暮らしていたと思われる。
性善説で生きられた江戸時代は、やはり平和な社会だったのだろう。
日本人が、騙されやすいのは、いまだ半数以上の人が性善説で生きているからだろう。
ここまで、理解しても、やはり性善説で生きていきたい。
性善説で生きられるのは、豊かな証拠だ。
それは容易でないが、僕の周りは、性善説で固めたい。