その娘は、北千住の生まれで、江戸時代から続く呉服屋の娘だった。
その家は、東京が焼ける度に一つずつ蔵を失い。彼女の父親の代でついに全てを失った。
高校を卒業するとモデルの真似事をしていたが、それで食えるほどの器量はなかった。
そのモデル事務所の経営するカフェでアルバイトをしていた。そこで、ある大学生と出会う。
彼女は、お世辞にもまじめな学生ではないその男と恋に落ちた。
その男の両親は厳格で、モデルやカフェ(夜には酒も出していた)で働く彼女との交際を認めなかった。
出会ってから7年後、二人は結婚することになるのだが、いよいよ結婚するという時まで男の両親は彼女に会うことはなかった。
男の両親に認められようと彼女は大学を受けてみたり、経理の専門学校に通い簿記の資格を取ったりした。
それでも、18歳から25歳まで二人は仲良く楽しく一緒に過ごした。
青春の大半を二人で過ごしたのだ。
二人は、男が社会人になって2年が過ぎたころ結婚を意識するようになった。
今と違って、女の結婚適齢期が24歳と言われた時代だ。
男は、多少マンネリを感じていたが、周りにせかされるようにして結婚を決めた。
結婚すると彼女はすぐに子供を欲しがった。
今思えば、男のマンネリを感じてそれを埋めるものとして子供が欲しかったのかも知れない。
結婚して半年が過ぎたころ、男に転職の話が持ち上がった。
彼女は、躊躇する男の背中を押した。
転職して半年過ぎる頃、男は半年間、米国研修に行く事になる。
その頃には、マンネリさ加減も重症となっていた。
男は妻である彼女を一人置いて、米国研修に発っていった。
半年後、男が帰国すると、男は彼女から思わぬ事実を告げられることになる。
「子供ができたの。」
もちろん、男の子供ではない。
「それでどうしたいんだ?」男が尋ねると彼女は言った。
「産みたいの。」
お腹の子供の父親は、彼女が勤める会社で一つ年下のおとこで青森の牧場の一人息子だった。
男は、お腹の子供を自分の子として育てても良いと考えていた。
だが、5月4日に彼女はお腹の父親と連れ立って男の元へやってきた。
お腹の父親は、男に向かってこういった。
「彼女を幸せにします。」と、
男は彼女に確認をした。
「今決めないとだめか?」
すると彼女はこういった。
「今、離婚届に判子押してくれないと、この子、ててなし子になっちゃうの。」
そう、5月4日は、予定日の半年前だったのだ。
法律上では、離婚後6ヶ月間は、次の結婚ができないのだ。
男は、その場で離婚届に判子を押した。
もともと結婚に反対していた男の母親は、嬉々ととしてこういった。
「ほら御覧なさい。私の言うとおりにしてれば良かったのよ。」
男は、そうじゃないよと言い返そうとしたが、そのまま言葉を飲み込んで、その後、際限なく続く母親の言葉を聞き流すしか術はなかった。
そして、事態は思わぬ方向にぶれ始める。
今度は、お腹の子の父親の母親が異議を唱え始めた。
その母親は、彼女に向かってこういった。
「結婚は許します。でもそのお腹の子供はやめて頂戴。」
彼女は追い込まれた。
だが、最終的に彼女はその母親の言葉を受け入れることになった。
お腹の子供はすでに5ヶ月になっていた。
5ヶ月での堕胎は、死産の形をとる。
形的には産むのだ。
人工的に陣痛をおこして死んだ子供を産む。
立派な大学病院の個室を用意され、彼女は子供を堕胎した。
さらに彼女は不幸のどん底に突き落とされる。
今度は、その男が青森の牧場に彼女を捨てて逃げ出したのだ。
結局、その男はマザコンで、母親の描いた計画通りに行動したのだ。
そして、彼女は全てを失った。
彼女は、元の夫である男にすがろうとした。
反省している。やり直したいと男に告げた。
「もう元には戻れないよ。」
そう男は彼女に告げた。
ただ、男は、逃げたやつをどうしても許せなかった。
その男は、元の夫に対しても嘘をついたのだ。
男は、彼女の為に慰謝料をとることを画策した。
すると彼女はこういった。
「もう、ただ忘れたいの。」
争う気力など彼女に残ってはいなかったのだ。
男は、青森の牧場を探し当てて、一度だけ逃げた男に電話を掛けた。
一言言わねば腹の虫が収まらなかった。
「このマザコン野郎。死ねば!?」
逃げた男は、ただ男の言葉を黙って聞いた。
それからしばらく、時々彼女は男に電話をしてきた。
半年が過ぎたころにまた電話があった。
男が電話に出ると、思わぬ会話が耳に入ってきた。
「ちょっと。やめてよ。」
受話器の向こうには、彼女の新しい彼がいて、電話する彼女にちょっかいをだしているのだ。
「ごめんね。もう大丈夫だから。」
その言葉を最後にもう二人は会うことはなかった。
随分たってから、男は、一度だけ彼女の親友に連絡を取った。
彼女の親友はバツの悪そうな表情を浮かべながら、その親友の元の夫に彼女の近況を述べた。
彼女は再婚をして3人の子供の母親になっていた。
やっと彼女は、完全に過去のものとなった。