和声音と非和声音の意識が、どこまで知覚できるのか?

結論から言うと、テンポが上がれば上がるほど不可能になると思います。即興の方がまだ知覚しやすいでしょう。なぜなら即興は自分のスタイル(語法)でしか出来ないし、自分のスタイルなら理解しているからです。でもテンポが上がればもう無意識な感覚(和声音に戻るという)に頼るしかありません。

↓の最初の楽譜はショパンの変ロ短調のプレリュードですが、そのままジャズのビバップのフレーズに移し変えられるようなハードボイルド調。これなどはまだいい方ですが、ショパンのエチュードのヘ短調OP.25-2なんかどうやっても知覚出来ないでしょう。指の感覚で弾くしかありません。


結局は普段からアドリブを弾いて和声音と非和声音の感覚を無意識に選別できるように鍛えるしかないと思います。その意味では即興ミュージシャン(特に複雑なフレーズを高速で弾くような)は、今となっては最強な訓練を積んでいると言っても過言ではありません。

クラシックやポピュラーのスタイルで即興的な高速フレーズとか弾かれても、??みたいなものが多く、質が低いものが多いです。(訓練としてはいいでしょうが)
その点ジャズは非和声音バンバン使うので実質クラシックの難しい曲を弾いているのに近いところでやる事になります。(あくまで “近い” です。)
ジャズでもホーン奏者のような単旋律のアドリブはクラシック作品の細かいフレーズに近いですが、ポリフォニック(多声的)な要素に関してはその複雑さにおいて敵いません。2声のインヴェンションにも歯が立たないでしょう(笑)
ですが未だに現代の作曲家でさえ、フーガなどのポリフォニーを即興で自由に操るのは至難の技で、フーガを即興で出来る人は限られているらしいです。
単旋律に限っても、たとえクラシックの作曲家といえど、高速で複雑な動きをするフレーズを知覚して弾く、あるいは聴く事は余程普段から訓練していないと難しいのではないでしょうか。

話は戻りますが、演奏の質を上げるには和声音、非和声の認識は必須ですが、↓の楽譜はショパンの2番のコンチェルト。1つめはA♭→A ♭ 7に変わる箇所で全てそれぞれの拍の前からコードトーン(和声音)を狙いにいっています。特にⅣのドミナントのA ♭ 7 に移る所が絶品ですが、こういう部分を素晴らしく聴かせるピアニストが非常に少ない。違いが聴こえたとしても薄味です。

ジャズ的ともいえる(ジャズがショパン的?)即興的フレーズはショパンの真骨頂
ドミナント上のドッペル保続音の使い方などはバッハの時代からやっていたが、ショパンが使うとより現代的で洒落ている。ジャズに近い響き♪


↑のディミニッシュのコードを刺繍音で挟みにいっているところなど、ジャズのフレーズとなんら変わりません。これを縦割りで拍の頭だけ強調されたらブチ壊しですし、全然理解していない事になります。このあたりは昔の演奏家はさすがです。ヴァイオリニストもピアニストもみなそれぞれのやり方で味を出していました。ピアニストだとサンソン・フランソワやシューラ・チェルカスキーあたりが濃厚な表現を得意としていました。

先ほどのコンチェルトの箇所は、西洋音楽の動機の基本である“弱拍→強拍”がわかっていないと、なんでこうなるの?になってしまうし、分析どころではないでしょう。まさに“ここ”こそが日本の音楽教育に欠落した最重要事項であるにもかかわらず、日本では何故かタブー(気づいてない?)となっている気がします。驚くことに作曲を習っている人の中にも、そういう説明を受けた事がない人が多いです。

それは言ってみれば日本語を話す日本人のハンディキャップでもあるという意見は少なからずあります。冠詞、定冠詞や男性、女性、(ドイツ語は中性まで)名詞を持たない日本語には、モノの名前を言うにも準備が要りません。The ~、La~、Das~が言ってみれば弱拍にあたり、名詞(拍の頭)が来る。だから、ショパンの例を見るまでもなく、ブラームス、アルベニスなども、コードが完全に変わる前から次の違うコードトーンを狙いにいく結果、そこはとんでもない不協和音になる。それにより、歯車が複雑に絡んだ構造や音響が生まれる。もしかしたら日本人の作曲家の創る曲にも、影響が在るのかもしれません。

この弱拍→強拍の感覚は、ダンスにも影響します。↑でリズムをとる西洋人?と違い、日本人が本来↓でリズムをとってしまい、麦踏みのようになってしまう事もそうだし、裏拍で手を打たず、表で打ってしまうのも、弱拍から始まるから感覚を持っていないからだと思います。ヒップホップは言うに及ばず、バロックダンスでさえ、拍の前にはプリエ↓という緊張状態があり、拍の頭↑に向かいます。弱拍→強拍ですね。

私もそれを意識するようになって以来、演奏する時はのべつまくなし考えています。そうしないと不意にオモテから始まってしまう事があるからです。(表面的な音の問題でなく、リズムの本質的な意味で)
それは日本人に生まれたハンディキャップと思っています。往年の演奏家の演奏を聴いて真似すれば、それらしくは聴こえるようになるでしょうが、それは“本物”ではありません。“本物”は自分で考え、感じ、解釈して初めて生まれるものであり、その際に間違えた『強拍→弱拍』の観念は払拭して書き換えなければ、そこに未来はないと思っています。




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