参拝の作法その5〜神社編完結〜 | 祈りの山旅

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祈りを込めてお山に上がる「登拝」や
神社仏閣、聖地への参拝を通して変わる心の旅。

山伏の私が登拝、参拝の案内人を務める「祈りの山旅」の活動記録、
予定告知、日々の感想記です。

参拝の作法の神社編もラストとなりました。
ざっくりと振り返ってみますね。

1:境内入り口の鳥居前で挨拶の一礼
2:正中を避け参道を進む
3:手水場で清める
4:静かにお賽銭を捧げる
5:鈴を心地良い程度の音で鳴らす
6:二礼で心と身体を神様と同調させる
7:二拍手の振動で神様と自分を活性化させる

と、大まかに言うとこの様な流れでしたね。
(初めてご覧になられている方は、過去の記事をご参照ください)

さて多くの人がこの後、神前で立ち尽くし手を合わせて心中でお願いをしていると思いますが、実はこれは厳密に言うと間違いなのです。

悪くはないのですが、神道では合掌して祈念はしません。
そうするのは仏教形式だそうです。

これは明治以前の神仏習合時代の名残りか、知識不足や勘違いでの祈願のやり方の大衆一般化によるものだと思います。

お願い事を念じたい気持ちはよーく分かるのですが、神社さんでは二礼二拍手のあとは、感謝と挨拶を兼ねた一礼をして終わりなのです。

「じゃあいつお願いしたらいいの⁈」
と思われるでしょうが、神道ではお願いは参拝の時に特別にする、という考えではない様に思います。

「流れ星が消えるまでに願い事を3回言うと叶う」
というのは皆さんご存知だと思います。
その真偽のほどは定かではありませんが、これには神道の考え方と共通する道理が含まれている様に思います。

それは何かと申しますと、
「願い事は常に心に留め、その為に努力し続ける」
という事です。

日常生活の中で常に心掛けて、達成出来る様に思い動き続ける。
そうやって生きているから、星が流れる一瞬にも咄嗟に願いを口にする事が出来、後に成し遂げられる、という訳です。
この迷信の様な言葉にはそんな智慧が込められていると思います。

神道では古事記、日本書紀などの日本神話が教えとなります。
そこには宇宙、地球、物質、自然、生物、人間の成り立ちの神様の働きを、分かり易いように擬人化して物語に仕立てて書かれています。(後半部分からは天皇家と国の歴史の記述になります)

内容を説明していくと収まりきらないのでまたの機会に譲りますが、神道はこの世のありのままを良しとする傾向が強いと感じます。
(逆に仏教はこの世は苦であるから自分を変えて解脱すべきと、やや否定的な感じに捉えます。(ただし宗派によって考えは違いますが))

自然に逆らわずに、神様の大いなる働きの流れに沿って自己の向上に努めながら生きる様を神道は示している様に思うのです。

常にその事を念頭に置いて生活をしているので、参拝の時にも念じる為にいちいち止まらない様な作法になっているのではないでしょうか?

神様の前だけでかしこまっていい子ちゃんのフリして願い事をしても、バレてますよ~。

普段の生活から参拝時まで一貫して願い、行動するのが神道での作法に表されていると思います。

という訳で、二礼二拍手の後は合掌せず、深く感謝の一礼をしてご神前を後にします。

ちなみに一礼のあと軽く礼をすると更に丁寧で良いとされています。

そして境内から出て鳥居の前で一礼して参拝は終わりです。

勿論参拝終わったからといって、それで満足していてはいけませんよ。

正しく思い、正しく生きる、をお続けになられてくださいね。

では次はお寺での参拝の仕方をお伝えしたいと思います。


河口浅間神社 母の白滝(上段)にて