1985年はファミコンにとってのジョイスティック元年と言う年でもあり、前回触れた2点以外にも続々と発売されていた。当時はまだホリ電機と呼ばれていたHORIがスティックを始めて発売したのもこの年なのであるが、知名度と言う点ではHAL研究所から発売された「ジョイボール」と、ファミコン史上最高傑作のひとつ「アスキースティック」の2点が双璧だろう。
まずは前者であるが、後にソフトメーカーとしても有名になるHAL研究所のファミコン参入第1弾が、何を隠そうこのジョイボールだった。読んで字のごとく、スティックの代わりにソフトボールよりも大きいかも知れないボールが付いているのであるが、この操作性が今一つ良くなく、どうしても自在に扱う事が出来なかった。
しかし、このジョイボールはおそらく当時の周辺機器の中でもトップクラスの売り上げを記録する。それは、ファミコン史上初の連射装置が付いていたからである。これにより、当時はまだ鬼門であったスターフォースのラリオス5万点ボーナスが誰でも取れるようになった。しかし、連射は早くても操作性が最悪であったので、私などは操作は十字キーで、ボタンを足で押しながらプレイした事もあるほどである。
しかし、このジョイボールを一躍有名にしたのが、同年に発売されたコナミの「ハイパーオリンピック」だろう。これは付属のボタン以外受け付けなかったのであるが、何故か連射切り替えスイッチを真ん中に置く事でジョイボールでも反応した。故意か偶然なのかは不明であるが、これによりあり得ない世界記録を出せたものである。
そして、もうひとつの雄が、アーケードのコンパネと同一のパーツを初めて使用した「アスキースティック」である。当時最も人気があったジャンルがシューティングゲームだった事もあって、アーケード畑のゲーマーにとってはまさに最初にして究極とも言える製品と言えた。特に、毛利名人などはテレビに出演する度に使用しており、余程気に入っていたのだろう。
しかし、その知名度とは裏腹に、私は購入どころか現物を見た事すらない。要は、スティック1台に8800円は単純に子供には高すぎたのと、ゲームセンターに行くのが禁止であった小学生にとって、アーケードスティックの価値は未知のものだったからである。正直、この出来からして8800円と言うのは妥当な価格であるのだが、大人でもその価値を知るものは多いとは言えなかった。なので、アスキースティックと言えばとにかく高い、と言うイメージばかりが先行し、アーケード畑のゲーマー以外にはその価値はまだ理解されなかったのである。