ネット前提の社会 | ONCE IN A LIFETIME

ONCE IN A LIFETIME

フィリピン留学から人生が変わった一人の男のお話です。

最近気になったニュースとして、ネットでのワクチン接種予約が出来ない高齢者たちの不満が殺到、というのがあった。これに関しては色々な意見が散見されたが、その中で印象深かったのは「Windows95が発売されて25年以上経っているのだから、その間に勉強を怠ってきた自分たちの責任」というものだ。

 

それは確かにごもっともな意見なのではあるが、同時に歳を重ねるにつれて新しい事を覚えるのが困難になる事も事実であり、今70だとしても当時すでに45なのだから、それはそれで簡単にはいかない案件なのも確かである。さらに、確かにWindows95が発売されて四半世紀は経ってはいるのだけれども、発売された直後はまだまだPCは一般的なものではなく、生活必需品でも決してなかった。

 

単に流れに乗って買っただけ、という人もいなくもなかったらしいのだが、つまりは実際その当時にWindows95を買う人などは、その時点でかなりのPCの知識はあった人たちばかりである。なので、当時の私も含めて、一般的な人たちはPCはまだ「得体の知れないもの」という認識が強く、それが今のように一般化するまではそれなりの月日を要した、という事だ。そして、スマホによってどこにでもネットに繋がるようになってからもようやく10年ほどである。そう考えると、現在80歳前後の人たちにとって、PCやスマホという得体の知れないものを学ぶ時間と余裕などはそうそうあるとは言えなかったのではないかと思うのだ。

 

そしてさらにここ10年ほどのガジェットの進化は物凄く、世の中は完全にスマホありきの時代となってしまった。ここで思い出したのが、ある英語に関するサイトであった「人間は英語を話せるもの」という文章だ。香港などの国際都市においては、滅多な事において「あなたは英語を話せますか?」などとは聞かれない。完全に「このような多民族都市にいる人間なら英語は話せて当たり前でしょう」という前提で絡んでくるからである。

 

という訳で、先述のように、どんどん社会は「人間はネットを使える事」を前提としたものとなっている。そして、その同じ流れとして、世界のキャッシュレス化も急激に進んでいる。日本は相変わらずこの点では他国の後塵を拝しており、先進国の中ではドイツと並んで最低レベルだという。この辺りは新しいものを受け入れ難い国民性が表れていると言われてきたが、コロナ禍の現在、お札からも感染の可能性がある、という事でコンビニなどでもキャッシュレスを勧める張り紙がなされるようになってきた。未だに頑なに現金に拘る人たちが多い中、これが大きな転機になるのであろうか。興味深い所である。