パンクラス | ONCE IN A LIFETIME

ONCE IN A LIFETIME

フィリピン留学から人生が変わった一人の男のお話です。

経営母体は異なるとは言え、今年でパンクラスが旗揚げして25周年。当時の新日本、全日本の歴史よりも長いのだから、離合集散を繰り返すプロレス・格闘技界の中ではかなり長寿な部類に入ると思う。その旗揚げ自体は9月のNKホールだが、プロレス界の中でも未来を嘱望されていた船木誠勝率いる団体だけあって、6月の旗揚げ記者会見からかなりマスコミから注目を集めていた。私的には最初はあまり関心はなかったが、7月ぐらいの合宿のリポートで、彼らの体つきが一般的なプロレスラー像とは対照的な素晴らしい筋肉質な肉体を誇っていた事をきっかけとして、私の中でも俄然注目を集めていった。

 

その当時良く使われていた見出しが、「プロレス界初の完全実力主義」と言う一文だった。これは船木の自伝的本である「ストレイト」においても、「おかしいと思っていたんです。大して練習もしないレスラーが格とか言うものに守られて勝ってしまうのが。本当に練習して技術を高める人が勝つべきリングを作りたいんです。」のような文章があったが、当時はまだまだケーフェイが完全に守られていたプロレス界、当然「普通のプロレスは事前に勝敗は決まっているけど、うちは違う。」なんて説明が出来るはずもなく、ファンの大半も真面目に見ていた事もあって、正直自分もその「完全実力主義」と言う意味が理解出来ず、じゃあこれまでのプロレス、UWF系とはどう違うんだ?としか思えなかった。

 

その答えは旗揚げ戦ですぐに解明する。メイン以外の全ての試合が5分以内で決着、しかもプロレス的な起承転結がなく、何の前触れもないまま突然試合が終わると言う、UWFのファンですら戸惑った、これまで一度も目にした事のないスタイル。その結果、週刊ゴング増刊の表紙には「秒殺」と言う見出しが躍り、それはパンクラスの代名詞となり、今では一般でも普通に使われている言葉となった。

 

正直、旗揚げ戦の試合が全て「そういう」試合だったのかは分からないが、前述のように、当時の業界に与えた影響は非常に大きいものがあった。1日も早く動く映像が見たかったのだが、当時はネットなどと言う便利なものはなく、ビデオを借りるしかなかった。しかし、そうすぐに発売される訳もなく、とりあえず何でも良いから船木誠勝の動く映像が見たかったので、船木にフォーカスを当てた「最後のUWF伝説」と言うビデオを学校の帰りに借りたのだけれども、良い場面ばかり編集している事もあったとは言え、UWF最後の1年の船木はとてつもなくカッコよく、瞬く間に船木の虜になってしまった。

 

当時の私はプロレスそのもののファンであり、誰かの特別なファンと言う訳ではなかったし、当然誰かに憧れた事もなかった。つまり、私にとって最初に「この人のようになりたい」と思わせてくれた人物が、船木誠勝と言う訳だ。とにかく船木のような肉体になりたくて、プロレスラーのトレーニングを参考にしながら必死で身体を鍛えていきそこそこの身体にはなったのだが、どうしても広背筋の付け方が分からず、数年の間は美しい逆三角形の身体にはなれなかったと言う思い出がある。

 

そして、初期のパンクラスのビデオは2500円ほどで買えた「25分のダイジェスト版」と、9800円の「フル」版のビデオの2種類が発売されていた。旗揚げ戦の合計タイムは13分ほどだったので、前者に全て収まったはずだが、それでは当然後者を買う人なんているはずもないので、試合前の挨拶も収録するなどして一応ダイジェストに編集されていたが、それでもメインの船木戦以外はほぼフルだったと思うので、それでも十分満足したものだった。

 

早く生観戦したくて仕方がなかったが、そのチャンスは意外と早くやってきた。1994年の年明け最初の興行が、UWFも使用した事のない横浜文化体育館で行われる事となったので、早速友人を誘い前売りでチケットを購入していった。前年夏から都内の大会場にしか行かなくなったため、ほとんどが上の方だった事と、2Fよりもリングサイドの方が若干安かった事から、1992年の全日本の伊勢原大会以来のリングサイドを購入していった。しかし、これが裏目となり、グランドの攻防が大半かつビジョンもない当時では、一旦寝技になると全くと言って良いほど見えず、かなり不完全燃焼な興行となってしまった。特に、友人の前の客がかなり座高が高かったようであり、「何にも見えなかった」としきりに言っていたものだった。また、カメラマンもかなり邪魔だったようであり、特にコーナーポストから撮影していたビデオスタッフはかなり辛辣な野次を浴びていたものだった。この時の経験から、2度とリングサイドは選ばないようにしている。

 

それ以降もパンクラスは追っていたが、今のように経済的に自由が効く事もなかったので、ビデオはもちろん会場に足を運ぶ事も2度となかった。客の目も慣れて、最初のようなインパクトは薄くなっていったし、もちろんプロレスのようなアングルもないので、自分の中でも新日本プロレスを超えるような事はなかった。翌年のある日、パンフレットについていたアンケートを送ったせいか、事務所から日本武道館大会の優待券が送られてきた事もあったが、特に興味を惹くような内容でもなかったので、行く事もなかった。その大会は12800人の発表だったと思うが、全日本が16300人なんて発表をしていた当時の事だから、実数だと1万も行かなかった事だろう。それでも、新日本ですら15年もの間武道館を避けていた最近の事を考えると、当時はまだまだ景気が良かったと言えるのだろう。

 

翌年、フジテレビの深夜でSRSが始まると、ダイジェストであれパンクラスも取り上げられていき、ビデオを借りなくても動く映像が見れるようになっていった。しかし、翌1997年には高田VSヒクソンをきっかけとして遂にあのPRIDEが誕生、初期は苦戦を強いられるも、桜庭和志の活躍をきっかけとしてMMAの主役に完全に定着。船木もコロシアム2000にて遂にヒクソンに挑むも敗北、私も雑誌を見なくなった事もあって、その時代に覚えている事と言えば、武道館で船木の引退セレモニーが行われた事ぐらいだ。

 

2年後、佐々木健介の代役として、あの獣神サンダー・ライガーが突如パンクラスのリングで鈴木みのると対決、その模様はテレ朝でも放映されたと思うので私も見たが、おそらくそれがまともに見たパンクラスのリング上で行われた最後の試合だったと思う。その試合をきっかけとして、鈴木みのるはプロレス復帰を決意、数年後は船木も格闘技を通じてプロレスに復帰、しかも通常だけではなく金網、さらに大仁田厚と爆破マッチまで実現させてしまった。

 

当時の船木に憧れた自分としては、正直複雑な気持ちにさせられたのは確かだが、やはり自分も一時期は格闘技メインになりながらも、改めてプロレスの素晴らしさに気づき、今年になってすでに10回以上新日本の会場に足を運んでいるぐらいなので、彼らも格闘技にはないプロレスの奥深さに、改めて気付いただろうに違いない。もしUWFと言う概念が存在しなかったら、船木も鈴木も新日本にそのまま残り、確実にドームのメインを張るようなスターになった事は想像に難くない、そう考えると惜しい面もあるものの、それでも私にとってパンクラスの旗揚げ当時と言うのは忘れがたき青春の一ページのひとつだ。