アメリカ合衆国憲法において定められている言語は何か?正解はなしだ。州ごとに英語やスペイン語が正式な公用語として定められている事はあるが、アメリカ全体における公用語は定められてはいない。しかし、事実上の公用語が英語である事は明白だ。スペイン語話者が人口の10パーセントを超える、と言われるアメリカ大陸、スペイン語の文章をところどころ見かける。しかし、それはあくまで補助レベルに過ぎない。チャイナタウンなどの特殊な場所も除けば、「アメリカの言語=英語」は絶対だ。
私はアメリカに行くまで、英語を公用語としている国には二ヶ国訪れた事がある。言うまでもなく、留学先のフィリピンと、10度も足を運んでいる香港だ。いずれも第2言語レベルであり、全ての住民が流暢に操れる訳ではない。しかし、公用語と言う事はもちろん憲法で定められた言語と言う意味だ。パブリックな表記は、必ず英語表記が存在し、英会話の通用度も日本とは比較にならないほど高い。特に、多言語国家であるフィリピンにおいては、御互いの共通語としての役割を果たしているため、主要な新聞、店の看板、そしてモール内の表記などはほぼ100パーセント近く英語だ。もちろん、ハリウッド映画も字幕なしの英語音声で上映される。国語であるはずのタガログ語を街で見かける頻度は非常に少なく、今思うとほぼアメリカに居るような感覚に近いほど街中には英語が溢れている。
香港においては広東語話者が圧倒的であり、地方に行けばいくほど英語の通用度は低くなる。しかし、観光客が訪れる場所や、Centralのビジネス街、欧米人が好んで住むStanleyやRepulse Bayなどは、ほぼ確実に英語が通用する。さらに、前にも述べたよう香港はアジア有数の世界都市でもあるので、お互いに意思疎通を図るには英語しかない。つまり、日本ではなかなか実感しづらい、「英語=ユニバーサルランゲージ」と言う認識が自然に刷り込まれていく。
よって、いずれの国も、植民地支配から逃れた今となっても、未だ英語は欠かせない言語となっている。しかし、もちろん彼らの母語はそれぞれタガログ語と広東語だ。つまり、英語が話せなくても、母語さえ理解出来れば、多少のディスアドバンテージはあろうが生きる上で不便はない。
もちろん、英語が公用語ではない台湾、中国大陸、そしてマカオなどにおいても、最低限の英語表記は存在しており、大陸以外の場所は英語だけでもそれなりに観光出来てしまうほど、街中における英語表記に不便は感じられなかった。もちろん、英語は無敵の言語ではない。地球上には英語だけでは住めない国がまだまだ多い、英語さえ出来れば何とかなる、はあまりにも浅はかな話だ。しかし、母語と国籍が異なる人間が10人集まったとしたら、英語しかない。人類の歴史が続く限り、地球上における英語の絶対的有利性は永久に変わる事はないだろう。それほど、英語の持つ支配力はすでに圧倒的だ。
そこまでの力を持つ言語を、アメリカ合衆国に住むほとんどの住民は自在に使いこなす。ネイティブなんだから当たり前だろう、確かにそうだ。しかし、アメリカは元々移民によって成り立ってきた国だ。21世紀の今となっても、人口の10パーセント以上は他国からの移民だ。しかも、限られた一部の国ではなく、ほぼ世界中から様々な人間たちが集まっている。もちろん、その中にはマイノリティではあるものの、我々日本人も含まれている。
そしてNYCは世界最大の国際都市だ。街を歩けば、それこそ多種多様な民族、言語を目に、耳にする事が出来る。あるデータによれば、NYC全体では約150の言語が話されているらしい。国連加盟国が180強だから、単純に考えたら世界中の言語がNYCで話されている事になる。単一民族で成り立ってきた日本からは想像が付かない世界だ。
では、それだけの民族を抱えるNYCにおいて、全言語とは言わないまでも、世界のトップ10に入るぐらいの主要言語全てが街中でサポートされているだろうか?答えはもちろんNoだ。NYメッツの本拠地へ向かう時に使用する、7番線内の駅においては、英語以外にもスペイン語、ロシア語、中国語、韓国語の注意書きメッセージが貼られている。しかし、それはあくまで例外。インターナショナルトレインと呼ばれるこの電車の沿線には、インド、メキシコ、韓国、そしてチャイナタウンとあらゆる国々のコミュニティーが存在しており、その中で生活する住民は英語が不自由な人たちもいるだろう。あくまで特殊な状況下であるため、前述のよう例外中の例外だ。
では、普段はどうだろうか。仕事柄、それこそ数え切れないぐらい地下鉄を利用していったが、車内や駅で見かける言語は英語だけだ。どこを見ても英語。アナウンスも英語だけ。
事実上の公用語、ネイティブの国なんだからまあ当たり前だ。しかし、電車のないセブ島を除く、これまで訪れた全ての国において、英語はあくまで母語が理解出来ない人たち向けのサポート言語だった。公用語である香港ではそうではないが、それでもあくまで広東語がメイン、広東語のみのポスターは存在しても、英語のみのポスターは学校関係でもない限り見かける事は非常にまれ。公用語であるにも関わらず、だ。
つまり、私はアメリカに来て、初めて本当に「英語だけ」、つまり車内にひとつの言語しかない地下鉄と言うのを初めて体験したのだ。日本だってほとんどの場所は日本語、つまり同じくひとつの言語だけだ。しかし、日本の場合、日本と言う国土において生まれてきた人たちは、ほぼ「日本人」だ。つまり、様々な日本の公共物は、「日本人が読む事」を大前提として構成されている。日本語を理解できない外国人の事などは二の次、あくまで日本で生まれた人間は全て日本人、極端に言えばそういうスタンスで常に国は動いている。
しかし、アメリカは違う。前述のよう、世界各国から母語が異なる人間たちがやってくる。それにも関わらず、パブリックな表記は上記例外を除いて英語だけだ。これが何を意味するかと言うと、世界のどんな国、どんな言語を持つものであろうと、アメリカに住む以上英語を理解するのは当たり前。極端に言えば、英語を話せないのであればアメリカで生きる資格はない。滞在中、常に無言のメッセージを浴びている感覚に陥っていた。
もちろん、そんな環境で毎日過ごせば、ごく自然、当たり前のように「人間は英語を話せるもの」と言う認識が嫌でも刷り込まれていく。これを英語で表すならば、"Ordinary human beings are believed to speak English commonly."と言う感じであろうか。
もし、ここ日本において、明らかに日本人には見えない人たちに、普通に日本語で話しかけるだろうか。人口比があまりにも違うので極端な例えではあるが、まあまずないだろう。しかし、多民族国家のアメリカではそんなのお構いなしだ。東洋人は全員中国人と思われても、白人らと混同される事は絶対ない。それは見てくれで明らかだ。しかし、彼らは話しかける事に躊躇する事はない。東洋人だろうが超スピードの英語で、なんのためらいもなく話しかけてくる。地下鉄だろうと、マクドナルドだろうと、球場だろうと。ブルース・リーの死亡的遊戯のように、「お前、英語は話せるのか?」なんてご丁寧に質問などしてこない。「アメリカに居る=英語が話せる」これはもう絶対だ。では、英語を話せなかったらどうなるのか。どうにもならない。表現は悪いが、この国で英語が出来ないのは、もはや言語障害レベルと言う認識だ。もっと極端に言えば、人間としてみなされない。だって、彼らの脳内では、人間の姿をしている人たちは、英語が話せるもの、なんだから。
もちろん、英語の本質的なレベルは人によりけりだ。日本語ネイティブであっても、誰しもがアナウンサーや作家になれないのと同じよう、英語でも話者によってレベルが存在する。しかし、とりあえず生活を保てるレベルであれば、ほぼ全ての人たちが英語を話せる。ネイティブだから話せて当然?そりゃそうだ。しかし、場所はどうであれ、ほとんどの人たちが意思疎通を図れるレベルの英語を話すのは確かだ。
その感覚を味わっていくうちに、真っ先に思い浮かんだのが、ビートたけしの母親の話だ。彼の兄弟のひとりがアメリカの大学で英語を勉強したい、と語った際、母親のさきさんは「アメリカ行けば乞食でも英語を話せる」と言い放ったのは有名だが、それはまさにそうだ。マンハッタンでは、ホームレスを見ない日はない、と言っていいほど路地に溢れている。性別、年齢は関係ない。思わず目を背けたくなるだろう。実際、それは最後まで慣れる事がなかった。
もちろん彼らも英語を話す。ここで前述のさきさんの話が頭をよぎった。確かにアメリカでは、お金がなくても仕事がなくても、英語は話す事が出来る。ネイティブだから当然、はひとまずおいといて。しかし、ここ日本においては、そんな人たちでも当たり前に出来る事を、ほとんどの人が出来ない。しかも、言語は頭の良さとは比例は別にしていないと思うのだが、日本においては少しでも英語の成績が良かったり、話せたりすると、周りから自然に「頭が良い」と思われてしまう。「アメリカではホームレスすら出来る事であるのに…何で日本人は未だに英語で苦労してるんだ?」私は頭を抱え込んでしまった。
また、私は言語は努力さえすれば誰でもマスター出来るもの、として認識しているが、全ての日本人がそうではないだろう。中には英語がちょっと出来るだけでちやほやされて、勘違いしている者も居るかもしれない。そういう人ほど、アメリカに来たらショックを受けるのではないか。日本では特殊能力とされている英会話力が、アメリカではみんな、ホームレスでも出来る。つまり、アメリカに入国した時点で「特殊能力」としてのアビリティは一瞬で消えてしまう。もちろん、話せないよりかは遥かにマシだ。しかし、それはあくまで「普通」の事。いわば、マイナスがゼロになっただけの話。つまり、英語以外に何のとりえもなければ、完全に「ただの人」と化してしまう訳だ。日本ではあれほどもてはやされたはずなのに、誰も英語力に関して褒めてくれない。日本人は英語が苦手?そんなの関係ない。国籍問わず、アメリカに居れば英語は話せる事が当たり前なんだから。
今でも、英語が話せれば海外で働けるだろう、海外の大学にいけるだろう、と言う考えの人たちは耐えないだろう。しかし、前述のようアメリカでは話せる事が当たり前だ。つまり、仕事で日本語を使わない限り、企業にとって英語を話せるだけがとりえな日本人を雇うメリットは全くない。永住権がなければビザの手続きも必要となる訳だから、なおさらだ。それでも英語を活かしてアメリカで働きたいのであれば、道はひとつ。日本人向けの商売をする事。結局、日本人に生まれた以上、相当な努力や飛びぬけた才能でもない限り、例えNYCに居ようと日本人との関わりは避けられないのだ。
また、アメリカに来た日本人留学生の実に4割近くが、英語を覚えないまま帰国してしまうと言う。努力が足りないのが全てだが、こんな英語だけの環境において何故そうなってしまうのか、疑問に思う人も多いだろう。しかし、実際に住んでみると良く分る。前述したよう、アメリカにおいてはいちいち「お前、英語話せるのか?」なんて聞いてこない。仮にTOEICリスニング満点あっても、聞き取りが困難なスピードで話しかけてくる。もちろん、英語が分らないとなればもう誰も寄ってこない。初心者がそんな状況に囲まれては、日本人コミュニティーに逃げるのも無理はないだろう。
野球選手だっておそらく同じだ。わざわざ野球以外まで、英語に対して神経を使いたいとは思わないだろう。当然、査定に英語力など存在しない、成績が全てだ。英語に本腰を入れて、肝心の野球がおろそかになっては本末転倒だ。英語を話せなくても大金を手に入れられるのだったら、わざわざ休みまで使って英語を真剣に勉強したい、とは思わないだろう。まして、大抵の野球選手は30前後で渡米だ。もちろん、若い頃に比べて言語習得は不利になっていくのだから、なおさらだ。
何故、私がそこまで語るのか。それは英語を学び続けているはずの自分であっても、休みの日ぐらい部屋で英語から離れていたい…とそれまでの私からは考えられない思考に陥ってしまったからだ。すぐにそれじゃだめだ、と自分に言い聞かせていったが…本当、実際に行ってみて初めて分る事がある、と気付かされたものだった。