アメリカ行きをためらい始めた理由は、前回述べたとおりだけども、それだけではなくもうひとつ大きな理由が存在していた。確かな情報かは分らないが、当時得た情報によれば、いったんJ1でアメリカに入国してしまうと、その間は他国への行き来は難しいと聞いた。つまり、その間は香港へ行く事はほぼ不可能になる。もし仮に自由に行き来できたとしても、アメリカから日本を飛び越えてまでわざわざ香港まで、と言う気には簡単にはならないだろう。よって、一旦アメリカに行ってしまえば、資金的な面も含め最低2年近くは香港には行けないだろう、と感じていた。
多くの知り合いの方が知っているように、私は香港の虜だ。2011年2月を始めとして、現在まで全て個人旅行で10回も足を運んでいる。特に、この2013年は、1月、7月、そして9月と、年に3度、計25日ほどの日々を香港で過ごしていた事となる。これは病的レベルと言っていいぐらいだろう。
では、何故そこまで香港に惹かれたのか。きっかけはもちろんブルース・リーだ。しかし、少し彼の足跡を辿れば分るが、ブルース・リーの人生に大きな影響を与えたのはアメリカだ。よって、彼の足跡を少しでも辿って生きたいのであれば、アメリカ、西海岸に行くのが本来であれば正しい。つまり、香港についてブルース・リーはあくまできっかけに過ぎず、香港そのものが私にとって非常に魅了のある国でもあった訳だ。
その香港の最大の魅力は「Asia's World City」、つまり東アジア最大級の国際都市という側面だ。それは日本から一番近い国際都市、と言う事でもある。実際の統計によれば、95パーセントの香港市民は香港系中国人だ。しかし、中環や尖沙咀と言う中心街においては、一日で日本で見た一生分の外国人を見れるのではないか、と言うぐらい多種多様なひとたちが日々闊歩しており、まさに国際都市の名にたがわぬ光景を見る事が出来る。
もちろん母語も人によって様々だ。しかし、多民族国家においては母語だけで民族を超えたコミュニケーションはほぼ不可能だ。ではどうするか、当然英語しかない。つまり、日本ではどうしても欧米のイメージが強い英語を、「Universal Language」としての重要性を嫌でも理解出来るようになる。もちろん、返還後の今でも公用語として残り続けているため、パブリックな表記なども必ず中国語と英語のバイリンガル表記だ。そういう場においては、日本のような機械翻訳の英語などは存在せず、間違いのないフォーマルな英語ではっきりと書かれているため、英語を勉強する場としても日本よりかは遥かにふさわしい場所でもある。こんな場所で私が惹かれないはずはなく、結果的に10回以上も足を運ぶ事となっていった。
つまり、この2013年においては、自分にとっての優先順位はまだまだ「香港>アメリカ」であり、正直香港で就労出来なかった悔いは残っていた。それに加えて前回の理由、時間の経過と共にアメリカ行きの事はほぼなかった事になっていた。
しかし、一旦は決まりかけた事、しかも世界一の都市NYとなればそうそう諦めるとは行かなかった事も事実。ここまで香港に足を運んだのも、アメリカに行くまでに十分行っておきたい、と言う狙いもあった。その通り、さすがに10回も足を運んだ今となっては、円安の影響もありもう十分だろう、と考えるようにはなっている。
よって、2014年初頭から、再度渡米を真剣に考えるようにもなっていた。しかし、長期と言う事は日本に居る間すべき事は全てコンプリートしておかなければ、後々後悔が残ってしまう。フィリピン訪問前にも似たようなシチュエーションがあったが、こちらはかろうじてうまく行く事が出来たのと、また当地での生活が大変に楽しかった事もあって、留学中日本を思い出す事は皆無だった。
で、結局何をしたか、と言う事なんだけども、ここはプライベートの側面が強いので詳しい描写は省く。まあ、前回を読んでくれた人であれば、大体の想像は付くだろう、とにかく、結果はどう転ぼうがそれだけははっきりしておかないと自分の気持ちが済まなかった。
それが何とか終わった直後、久々にエージェントに連絡を取った。さすがに数ヶ月放置と言う事で心苦しかったが、快く対応してもらえた。そして、新たな就労先を探してくれると言う事になった。つまり、前回のうどん屋はなかった事になっていた。これはショックだったが、後々理由が判明した。なんと、私が再度コンタクトを取った時点で、すでにミッドタウンから撤退していた、つまりは潰れていたのだ。つまり、仮にJ1で渡米出来たとしても、18ヶ月を迎えるどころか1年も働けなかった事になり、現地で路頭に迷っていた可能性だってあるのだ。よって結果論ではあるものの、ビザを取れなかったのは良かったのかも知れない。まさに運命の分かれ道だった。
そこで新たに紹介してくれたのが、サンフランシスコの日系ラーメン屋だった。NYでなかったのは若干ショックだったものの、SFと言えばもちろんブルース・リーが生まれた場所だ。ラーメン屋と言うのも正直またか、とは思ったものの、飲食以外の選択肢は困難と言う事も十分分っていたので、受け入れるしかなかった。
数日して面接となったが、今回はスカイプのビデオ通話だ。感情が顔に出てしまう自分は、ラーメン屋で働く事への意欲の低さが伺えてしまったのかも知れない。当然ビザの問題もある。案の定、結果は落選だったが、正直ホッとした気持ちの方が強かった。
再度選考してくれるとの事だったが、前回説明を忘れていたものの、実は応募直後に現地のエージェントの系列会社からスタッフとしてのオファーを受けていた。主に現地留学生の世話、と言う事で、今考えれば自分の能力を活かすには最適な場所のひとつだ。しかし、当時の私はあくまで英語環境に拘った。スタッフが全員日本人である事と、給与が1000ドル、当時のレートでわずか8万円と言うのも引っかかった。結局、返事は保留、なかった事となった。
しかし、当時はそれから2年、TOEICもかろうじて790を記録していた。仕事に使うには心細い面もあるものの、多くの企業で800前後と言えば海外派遣社員に要求されるレベルであり、また毎日のレッスンによって英会話力も飛躍的に向上していた。つまり、2012年当時ほど英語環境に拘る気持ちはなくなり、とにかく飲食以外で自分の能力を活かせる場所、と言うのを考えるようになっていた。そこで思い出したのが、前述の企業であり、再度英会話力のチェックを行ってくれる事となった。
一応自分としては手ごたえがあったものの、その後同企業からの連絡はなかった。エージェントからの連絡も途絶え、結局2014年が終わるまでそのままだった。しかし、個人的な生活には大きな変化が起こった1年でもあった。前回触れた、私と対立していた人物が皆の前から消える事となり、基地へ戻る事への障害がなくなったのだ。折りしも日本を震撼させた中国の食品スキャンダルが起きた直後でもあり、日本店舗の売り上げが激減していった頃とも重なる。様々なきっかけげ同時に起こり、9月から本格的に復帰する事となった。
そこでは久々に再会した人たちや、また新たに出会う人たちも居た。その中には、今に続く自分の心を引き寄せてやまない人物もすでに含まれていたのだが、それは本来のテーマとは無関係なので描写はしない。しかし、当然日本を離れたくない大きな障害でもあったのは事実でもあった。
そして年は明け2015年、前年の誕生日ではデモによって満足に楽しめなかった事もあって、旧正月前の香港旅行は年明けのまず最初の楽しみだ。前年はキャセイパシフィックのお年玉セールを使用したものの、今回は子会社の香港ドラゴン航空使用と言う事もあり、価格にさほど差がなくサービスを重視した自分は、定番の台北経由のチャイナエアラインを選択し、旧正月までの9日ほどの香港旅行を満喫する事となった。
香港の楽しみのひとつが、現地の友人と会う事だ。当然、私は男なので、女の子との出会いを好む。香港人も台湾人に負けないぐらいに、日本大好きな子は多いので、フェイスブックなどで長年交流している子も多い、その中で一番仲の良い子と、ある日会う事となり、6時間ほど幸せな時間を共有させてもらう事が出来た。
それとこのテーマに一体何の関係があるのか、実は当日の帰宅直後、エージェントから衝撃的なメールが届いていたのだ。つまり、J1ビザは困難、学生ビザでの就労もほぼ不可能として、要は打ち切りを宣告されてしまったのだ。今度こそ、アメリカ行きの話は完全に消滅、しかし、ここまで良くしてくれたエージェントの決断であれば従うしかない、よって、私としてはその話を受け入れざるをなかった。
しかし、承諾のメールを送った直後、改めて企業のサイトを拝見した所、無給インターンと言う可能性がある事を知った。しかも、有給やビザありとは異なり、未経験の業種でもOKが出る可能性が高い、との事だ。アメリカ行きをためらっていた理由に、飲食店で働くために英語を学んでいった訳じゃない、と言う事はすでに触れた。しかし、ビザありではその道から逃れられる事は出来ない、しかし、3ヶ月と言う短期であればそこに拘る必要はなくなるのだ。もちろん、無給と言うのはハードだ、しかし、お金なら日本で稼ぐ事は出来る。しかし、当然海外で経験出来る事は海外だけだ、そして今の自分に一番必要なものはお金ではなくその経験だ。決断するまで時間はかからなかった、再度、すぐにエージェントに連絡をとり、その旨を伝えた。