今晩のTBSラジオ・アクセスのバトルトークのテーマは褒めることについて。
今はインターネット上で褒めてもらいたいことを書き込んで、他の人に褒められて癒されているらしい。
バトルトークでは、褒めることをわざとらしくする、というのには否定的な人はいたけれども、
結論としては、褒めること自体に否定的な意見はなかった。
すなわち、人を褒めてはいけない、褒める必要は全くないという人はいなかった。
ここで褒めるというのはどういうことかを考えると、
(1) 相手を認める
(2) 相手に認められる
(3) 相手を前向きにさせる、自分がうれしくなる
ということである。
ラジオでは、(3)の効用には言及していたが、(1)と(2)には言及がなかった。
(3)は褒められる本人が思うことであって、褒められた人なら肯定するはずである。
このとき、(2)の相手に認められたという感情が少しでもあったはずで、
これがないと反対に不快に、あるいは馬鹿にされたと思うでしょう。
例えば、嫌いな相手に言われたりとか、悪意に、大げさに若しくは執拗に言われたりとかいう場合。
または、褒められる側が、経験上、褒め殺しにあっていて褒めなれていないどころか不快に感じる場合。
こういう場合は、褒める側、褒められる側それぞれの主観の問題であったり、褒める内容、
発言の状況にも左右される。
(ラジオの褒めることの否定派は、こういう場合を指して否定的だった。
ただ、こういう場合は褒めるという行為に値しないと思う。)
『褒める』で重要なのは(2)である。
褒められるに限らず、人は相手に認められて、自分で自分の存在を認められる。
簡単にいえば、生きていていいんだね、という感覚。
大部分の人の、この感覚が当たり前すぎてわからないのは、自殺する人の感覚がわからないのと一緒。
そして、褒めるのなかには、(1)相手を認めるという行為がある。
ただし、認めるというのは程度の問題もあって、共感が強ければ強いほど、認める認められるの効用が強くなる。
以前、某精神科医に「素敵なネクタイですね。」と会った直後に言われたことがあるが、
不意を突かれた感じがあった、もちろん悪い気はしないけど。
反対に親しい人、特に異性に褒められると、とてもいい気分になる。
冒頭のホームページの出現は、現代は相手に認められる機会が少ないということを示しているのだろう。
希薄な親子関係・人間関係、感情的な思考、不況、職場における人員削減などで、現代人は心に余裕がない、
不安でいっぱいである、という人が多い。
褒める、相手を認めるというのは、不安でいっぱいな人には、できないことである。
なぜならば自分のことでいっぱいいっぱいだから。
認める人も少なくなって、認められる人も少なくなって不安が広がっているんだろうね。
ところで、褒める褒められる行為は、子供にとっては、大人の場合とかなり違ってくる。
ここでいう大人とは、親などに認められることにより自己が確立されて、感情抑制などができ、
少しの困難にも耐えられる人である。
子供は自己が確立されていない状況、自分を探している状態である。
もちろん元気にはしゃいでいる幼児でも、認められる経験がなければ自己を確立できず、不安になって、
暴力や不良行為、最悪自己否定、自傷という表現にあらわれてくる。
ここで結論。子供は大いに褒めて(怒って)、大人はさりげなく褒めるのが大切。
余談だが、甲子園出場の名門、常総学園の木内監督はめったに褒めないというのを聞いたことがある。
球児が厳しい叱咤にも耐えられるのは、甲子園という目標があることのほか、
高校生になるまでに自己が確立されていればこそである。
ただ、監督は褒めない代わりに選手をよく見ていて、それが球児にとっては愛情、認められるということなのかな
とも思う(あとで監督の著書を読んでみたい。)。
今日はここまで。
第1回目のコラム。少し酔っ払っていて、夜遅いけれども、このテーマは是非書きたかった。
推敲しないのはご容赦ください。
興味がある内容でしたら、ペタっとしてください。
