そういえばむすめの運動会の時に、お天気で悩まされたことがない。いつも晴れていた。9月にあったときも、5月にあったときも。今年も晴れだった。

心配していた組体操も多少の乱れや失敗はあったのだろうけど、ひどく目立つようなものもなく、怪我人が出るようなこともなかった模様。どうもむすめの姿を追っていたせいか気が散ってしまい、無心で演技を楽しむことができなかったように思う。泣くと思っていたけれど、心配事があると、深い感動を味わえないのかもしれない。
来年は小学校最後の運動会になる。一年生や就学前の子どもたちを見ていると、あんなに小さかった子達も筋肉がついたり、背丈が伸びたりして、ほぼ一律にあんなに難しく、力が要りそうな技が出来るようになるのかと、ぽかんとした心持ちだった。

あの、幼くふわふわしていた時期が舞い戻ることもない。校舎のトイレを借り、自分のところのシートに戻る途中、茄子の植木鉢が並ぶ通路を、小さな(2才~3才)くらいの子どもがとてとてと歩いていた。私が間に入り(入ってしまい)、そのすぐ後ろを母親が歩いていたのだろう。振り返り、母親がついて来ているのがわかると、またとてとて歩く。いるのがわかれば、一人で歩きたいのだ。細くて白い男の子のうなじを眺めながら、歩いていた。

親がそこにいるのがわかっているだけで十分なのかも知れない。恐らく基本的な信頼関係とか絆とかいうものはごく普通にしていれば生まれ育っていくのだろう。

むすめは昨年より喋らなくなり、しかし、語彙はだいぶ増えたと感じる。見守っている、見守りたいと思っていることが彼女に伝わっていればそれでいい。にぎやかに運動会の話をするでもなく、なんとなくお互いマンガを読みながら、注文した料理が届くのを待つ。そんな感じで私たちは変化し続けている。