時間の流れは早すぎて、あっと言う間に一年の四分の一が過ぎていった。
人生の流れはもっと早くて、私の寿命の半分はおそらく過ぎているのだろう。
iPS細胞の研究などが進み、体の細胞の入れ替え、取り替え、付け替えなんかがうまく行くようになったらもっと長生き出来るのかもしれないが、お金のあるひとしかそれは叶わないような気がしているし、そこまでして今生にしがみつきたいか、よくわからない。
書こうと思っていた治療の記録。
入院は四日。開腹術にしては早い経過だった。痛みのコントロールだけがとにかく大切なのではという風に思われる。
大量の鎮痛剤を飲みながら、早期離床を促す。痛みを抑えて、早く体を動かし、腸蠕動を促す。排ガスがあれば食事開始。昔と違い、ガーゼ交換もなく、密閉している半透明の膜の上から膿んでやしないか確認するだけ。
点滴は嫌いだった。
冷たい液体が、細い管から細い血管に伝わり、入っていった。
右の前腕に入り込む針の先の皮膚はひんやりとつめたくなっていた。漏れてはいないけど、血管から薬が混ざった液体の温度が伝わり、ひとの肌の温度ではなくなってしまう。
点滴が抜けたのは退院前日。
病院で死ぬときは死ぬまで入っているのだろう。
死ぬ少し前には抜いてくださいと遺言ノートに書いておきたい。それで大して死期が変わらないのなら、そうしてくださいと。
身軽で死にたいと。
看護は輸液管理中心で、それは私が病棟にいた頃と、あまり変わらないのだろう。
数時間おきに訪れる看護師は点滴しか見ていないように思えた。私もそうだったのだろうか。お礼を言ったところ、にこりと笑顔を見せてくれる看護師はひとりくらいだったか。私は患者さんを見ていただろうか。
忙しいのだろう。病棟はいつだって。
ミスをしないことに必死で。
あの頃いた病棟には重症の患者が多く、大部屋には白血病の安定期の人がいたり、悪くなれば個室に移り、それを繰り返し、ゆるやかに波は右肩下がりの曲線を描き、死に近付いていくのだった。
あるいは。
肝硬変からの肝臓癌で再入院を繰り返すごとに肝機能が低下し、そのうちはだは黄色くなり、目は濁り、腹の水が溜まるひとの記憶。
象のような足。混濁する意識。
増える点滴。苦しかっただろう。
点滴で薬は入れたいのに、みずは掃けていかない。
脳血栓の末のひと。
もう起きることはなくなってしまう。まだ、温かいのに。呼吸器の音がいつもしている病室。
うけもちになると毎朝髭を剃るのもケアの一つだった。
閉じたままのまぶた。
少しずつ時間が過ぎて、何かが訪れるのを待っているかのような。
病院は完治していくひとだけのものではない。看取りの教育があまりにお粗末だったこともあり、仕事についてから、気持ちがついていけなくなった。何のために?誰のために?
理想と現実の乖離。
薬の種類と量の確認。速さの確認。副作用の確認。
何本も、ぶらさがる点滴の交換、シリンジポンプの確認、呼吸器の確認、酸素の確認、吸引、バルーンカテの確認。
管理だけでヘトヘトで、スマイル0円なんて提供する余裕もなかった。と思うが、当時私はどうだったのだろう。思い出したくもない、必死なだけの自分。少しでもお役に立てていたのだろうか。
体が持たない、気持ちも持たない、そんなことも、あって半分逃げるような気持ちもあり、数年で進学した。
後悔はしていないが、経験を積み重ねて積み重ねていった先にはどういう風景が見えていたのだろう。病室のベッドで点滴をみながら、そういうことをつらつらと考えた。かどうかあまりよく覚えていない。
一部の同級生はそのまま大学病院に残り、師長になり活躍している。
ま、私には無理だったよな。何事も体力は大切なのである。
今回、術後一日目の夜から食事開始になったはいいけど、初回の流動食がひどかった。
重湯、薄い具無し味噌汁、牛乳、なぜか紅茶と、すべて液体だったのだ。さすがに切なくて。笑ってしまった。
点滴台をおしながら歩いていた廊下で。見かけた献立表に、普通食がミートソースなんて書いているのを見て、目茶苦茶羨ましい気がした。人間の三大欲求のうちのひとつ、偉大なる食欲は私の中にしっかり存在しているのであった。
入院患者にとって、最大の楽しみは食事だということを今頃になり思い知る事となった今回の入院であった。