子供を育てるということを計画的に、誤ることなくできるとは思えない。いやいや、自分を基準にしちゃいけないなと思い直す。少なくとも私は無意識に、間違いだらけで、やっちゃっているんだろうなと思う。しかし、小心者であるために、軌道が外れっぱなしになることが不安で、自分がやってることがそのやり方で合っているのか確かめたくて、子育て本を読むことが多かったような気がする。

近所付き合いが活発だったり、子育て経験者が身近にいれば、聞くことも出来るのだろうけれど。しかし、それも「それは心配いらない」とか「大丈夫!」の一言が欲しいのであって、自分たち親子のやり方が他の親子に当てはまる訳ではないことを含めたアドバイスでなければ、かえって不安の中にある母親の不安を募らせたり、自信を失わせるかもしれない。

子育ての本はたくさん出ていて、私もぽつぽつ買って読んでいた(読んでいる)。特に幼児期までは手にとることが多かったように思う。『母の友』とかは今でも手にとったりしている。好きな考え方のひとの言葉は強い味方だと思う。正解はないだろうし、子育ては相互関係にあるから、親と子のコラボ(笑)的な感じがする。「私たちのやり方」っていうのが、それぞれにあるように思う。体罰とか虐待とかは論外だけど。お互いに共鳴しあって生きている。

なんだ、急に。と思うかも知れないけれど。理由はむすめの作文なのである。学校放送で必要になった文章をまとめるのを私が手伝ったら、むすめが「私も自分でちゃんと書けるようになるかなあ」と言った。手出しし過ぎないように気を付けようとふりかえる一方で、これまで書いたことのない種類の作文の、言い回しとか小手先のことくらいは手伝ってもいいかなと思う。これから似たような文章を書く機会はたくさんあると思うから。そんなのは慣れたら大丈夫なのだ。だけど、むすめの考えそのものを、考えてあげることは出来ない。それは自分の中から生まれるものだから、私が替わってやってあげることは出来ない。

だけど、考えの根本には両親の考え方が影響してくるだろう。私の生き方が影響しているだろう。それも、ずっと昔からつながってきているのだろう。いいか悪いかはどうであれ、それは間違いなくそうなのだ。

むすめが小学校に上がってから買った本を久しぶりに手にとってみた。これはもしかして買ってから、通読していなかったかもしれない(汗)新潮文庫から出ている服部祥子さんの『子どもが育つみちすじ』という本だ。この本ではいくつかの詩や文が引用されている。たまたま昨日目に止まった山之口貘という詩人の「ミミコの独立」を読んだら、すとんと心に降りてきた。小さな女の子がお父さんの大きな下駄を履いて、外へ出ていく場面を書いた詩である。

とうちゃんのかんこなんかかりないよ
とうちゃんのかんこをかりてってミミコのかんこをはくんだ

…と詩の一部にある。これを読んで、状況は全然違うし、意図したものも違うかも知れないけど、私の気持ちはなんだか落ち着いた。私の言葉を少しばかり使って、むすめの考えを形にしただけだ。でも、むすめは自分の言葉で、自分の考えを早く形にしたいと考えている。

あっという間に半分来たなと思う。何かというと、明日の授業参観では「二分の一成人式」をやるらしいのだ。これで使うものには私はノータッチだとはっきり書いておこう。成人式という区切りまではまだ半分だけど、もう半分来たという感じもする。何となく自分の中で気になってたからたくさん書いてしまった。明日は休みをもらえたせいもある。むすめが赤ちゃんの頃から相変わらずの迷いながらではあるけれど、日々は楽しく、一緒に歩いていきたいと思う。