もしも記憶が一時間に一事象ずつ消えてしまうとしたら、それは多いのでしょうか、少ないのでしょうか。ものすごい勢いで脳の細胞は壊れていきますが(10万個/日だとか)、記憶はそんなに早く抜け落ちないでほしいと思います。
つまり、目録を読み直してもどの作品のことだったかなとすでに曖昧…(図録ってこういう人間のために必要なんだろうと思う)
10月にブログを書いていたとき赤瀬川氏の今回の展覧会、集大成としての位置づけになるとは思いましたが、氏がその初日二日前に逝去されたことには驚いてしまいました。
こういう気持ちはどうなんでしょうか。知り合いでもなんでもないけれど、なんともさびしい気持ちになりますよね。いつも意識してるのではありませんが。人生を歩いていくときのよりどころというか、点々と置かれている道しるべ的な存在がそれぞれの人の心中にあると思うのですが、そういうのが一つなくなっちゃったなあ。という感じです。
面白いことをやってるな。と、楽しませていただいていましたが、そればかりではなくかなりたたかう人でもあったと思うのです。作品は人をくったようなものが多い。デュシャンの「便器」「泉」的な意味合いのものでしょうか。「梱包作品」とかですね。既存の価値観を壊すために何かを蹴落とす必要はなくて、まったく誰もやってないことを目に見える形にしてやればいいということなんでしょうかね。初めにやったもん勝ちという感じもしてしまいますが…
順々見ていきましたが、何しろ絵がうまいですよね。あったりまえだろ!と言われても、緻密に描きこんだ絵はもう絵の10センチそばくらいから見つめてもきれいに描かれています。会場係のおねえさんに近づきすぎ!と注意はされませんでした。線が混んでいても汚く見えないということはそれぞれの線は整って描かれているということだと思うのです。
ゆがみなく美しい線。氏の漫画にしてもそうだったんですね。ざらざらの紙に印刷されたらわからなくなってしまうかもしれませんが、原画は綺麗だす。ポスターなどイラストレーションで描かれたモノたちも魅力的に映ります。そんなだからパロディー作品とか千円札が真実味を帯びてきて、そのうちに、すでにそのものが独立した存在感を放つのでしょうね。氏のそれは偽札なのではなく、それは氏というフィルターを通してみた「モノ」(お金)の意味そのものなのだと思いました。
誰かが言われた「神は細部に宿りたまふ」という言葉は氏の作品にとてもよくあてはまると思います。
作品の大きさでいったら初期のオブジェ以外は小さいですよね。活動がイラストや漫画などになってきたら当然です。そのワンカットに込められる意味がすごく大きいのだと思います。よく考えて表現されているから、見る側も、いま。をある程度知らないとわからないんだろうなと。私なんかはわからないことだらけ。で、とおり過ぎていいのか?と問われているようでしたね。神(紙)の力は偉大だ…
路上観察などにしても偶然がつくった芸術を超越するような無用の長物は、偶然に成立したものだからこそ神が宿っているかのようです。それを発見する視線はまあ、どちらかというとあたたかいものだと思うのです。
何しろ文も書くひとの活動でもあるため、出版物なども多く、作品を見て読むのに結構時間がかかるんです。最後のほうのカメラとかはもうわたくしダレてきてしまって、とっととすっ飛ばしてみてしまいました。マニアには魅力なのかな。でも、カメラの鉛筆デッサンはまたハンパなく精巧な作品でした。すごいなあ…白黒で質感出しまくる…
『赤瀬川原平の芸術原論展~1960年代から現在まで~』は12月23日まで千葉市美術館で開催されています。
つまり、目録を読み直してもどの作品のことだったかなとすでに曖昧…(図録ってこういう人間のために必要なんだろうと思う)
10月にブログを書いていたとき赤瀬川氏の今回の展覧会、集大成としての位置づけになるとは思いましたが、氏がその初日二日前に逝去されたことには驚いてしまいました。
こういう気持ちはどうなんでしょうか。知り合いでもなんでもないけれど、なんともさびしい気持ちになりますよね。いつも意識してるのではありませんが。人生を歩いていくときのよりどころというか、点々と置かれている道しるべ的な存在がそれぞれの人の心中にあると思うのですが、そういうのが一つなくなっちゃったなあ。という感じです。
面白いことをやってるな。と、楽しませていただいていましたが、そればかりではなくかなりたたかう人でもあったと思うのです。作品は人をくったようなものが多い。デュシャンの
順々見ていきましたが、何しろ絵がうまいですよね。あったりまえだろ!と言われても、緻密に描きこんだ絵はもう絵の10センチそばくらいから見つめてもきれいに描かれています。会場係のおねえさんに近づきすぎ!と注意はされませんでした。線が混んでいても汚く見えないということはそれぞれの線は整って描かれているということだと思うのです。
ゆがみなく美しい線。氏の漫画にしてもそうだったんですね。ざらざらの紙に印刷されたらわからなくなってしまうかもしれませんが、原画は綺麗だす。ポスターなどイラストレーションで描かれたモノたちも魅力的に映ります。そんなだからパロディー作品とか千円札が真実味を帯びてきて、そのうちに、すでにそのものが独立した存在感を放つのでしょうね。氏のそれは偽札なのではなく、それは氏というフィルターを通してみた「モノ」(お金)の意味そのものなのだと思いました。
誰かが言われた「神は細部に宿りたまふ」という言葉は氏の作品にとてもよくあてはまると思います。
作品の大きさでいったら初期のオブジェ以外は小さいですよね。活動がイラストや漫画などになってきたら当然です。そのワンカットに込められる意味がすごく大きいのだと思います。よく考えて表現されているから、見る側も、いま。をある程度知らないとわからないんだろうなと。私なんかはわからないことだらけ。で、とおり過ぎていいのか?と問われているようでしたね。神(紙)の力は偉大だ…
路上観察などにしても偶然がつくった芸術を超越するような無用の長物は、偶然に成立したものだからこそ神が宿っているかのようです。それを発見する視線はまあ、どちらかというとあたたかいものだと思うのです。
何しろ文も書くひとの活動でもあるため、出版物なども多く、作品を見て読むのに結構時間がかかるんです。最後のほうのカメラとかはもうわたくしダレてきてしまって、とっととすっ飛ばしてみてしまいました。マニアには魅力なのかな。でも、カメラの鉛筆デッサンはまたハンパなく精巧な作品でした。すごいなあ…白黒で質感出しまくる…
『赤瀬川原平の芸術原論展~1960年代から現在まで~』は12月23日まで千葉市美術館で開催されています。