『うまさぎっしり新潟』と言うのは新潟県観光協会のキャッチフレーズです。

ですが、今の新潟は地理的な優位性を生かしきれず衰退の一途を辿るばかりで、農業都市として食をアピールするくらいしかない状態です。

 

発展することだけが正しいとは思いませんが、日本海側唯一の政令指定都市としてある程度の発展は必要と思います。一例をあげると、市内にボウリング場が3箇所しかないと言うのはあまりにもお寒い状況です。

そんな残念過ぎる新潟、衰退してしまった理由を自分なりの解釈で考えてみました。

 

新潟港が一番発展していた時期は昭和前期~終戦までです。

朝鮮半島、満州国への最短ルートとして、また県内から産出される石油精製の場として、物流、工業の拠点として国内でも有数の都市だったようです。

有名な話ですが、原爆投下予定地で大規模空襲を受けなかったことで、戦後しばらくは勢いを保っていました。

 

潮目の変わり目は1964年に発生した新潟地震です。

直接的な被害も大きかったのですが、高度経済成長絶頂期に大規模地震が起きたことで大企業が新潟から離れていくきっかけになり、一気に流れが変わってしまいました。

地震後に新潟港は15km離れた場所に東港を整備したのですが、思うように工場誘致が進みませんでした。

 

日本石油(新日本石油)は西港にあった製油所を移転すべく東港の一等地に用地を確保するのですが、移転しないまま港の一等地に暫定的にゴルフ場を作って50年が経過してしまいました。地震による被害からの復興と復興後に起きたオイルショックで移転が進まなかったと思われますが、もともとあった西港の製油所も1999年に閉鎖してしまい、港の一等地に活用されない工場跡地が広がっています。

あくまで個人見解ですが、日本石油は新潟県が発祥の地であり、相応の恩返しもなく撤退していったのは、新潟を衰退させた一番の要因と思っています。

他にサッポロビールも東港に用地確保しましたが、工場建設凍結のまま、サッカーチームのグラウンドとして利用されています。


現在、西港付近に残る大手企業は北越製紙(北越コーポレーション)くらいのもので、日本鋼管(JFEスチール)、昭和シェル石油、日東紡、新潟鐵工所等は全て撤退か、倒産、廃業してしまいました。

 

街の規模のわりに公共交通網が脆弱なのも問題です。

特に鉄道網。人口集中地域を迂回するように敷設された客車路線と、人口集中地域を通っているにもかかわらず活用されないまま廃線となっている貨物線。

JR化されるまでの鉄道は国策的な要素が大きく、直接的な原因はわかりませんが、信濃川、阿賀野川を利用した舟運が発達していたので、鉄道網整備が出遅れたのではないかと考えています。

鉄道を含めた交通網が発展しなかったのは、市内交通を一手に引き受けている新潟交通に都市開発を含めた経営のセンスが無かったことが一因と思っています。


新潟空港も国管理空港ですが、赤字垂れ流しの散々たる状況です。

新幹線開通後、ドル箱路線の羽田線がなくなったのが大きかったと思われますが、利用者が増えないのは交通網にも原因があります。鉄軌道がない、駐車場代が高い、あるのは乗り換えの面倒なバス路線だけ。

 鉄軌道については何度も検討されていますが、採算が取れないと言う理由でその先に進めない状況です。

以前にも少し書きましたが、思い切って新幹線を延長させるくらいのことをしないと状況は変わらないと思います。新幹線が繋がれば、県内だけでなく、県外からも空港へ人が流れてくると予想されます。東京で乗り換えて更に2時間近くかかる成田空港へ行くくらいなら、新幹線直通で新潟空港と言う選択はありなんじゃないかと思ってます。


交通網整備のような公共事業には政治的な力も必要です。

昭和の新潟の政治家と言えば田中角栄。1984年の早い時期に上越新幹線を開業させたのを始めとして、圧倒的な政治力を誇りましたが、1985年の脳梗塞発症以降、田中派の分裂騒動もあり、平成期に入ると政治力は弱まってしまいます。

田中政治の副作用で平成以降、新潟への投資は停滞し、衰退期に入ったまま埋没していきました。

 

脆弱な公共交通網を尻目に、1970年頃、規格外の片側三車線の高規格道路、新潟バイパスが出来たのが公共交通に致命傷を与えることになりました。これは田中角栄の政治力と思われることが多いのですが、実は無関係で運輸省の担当者が尽力して作られた道路です。

37km信号無し、制限速度70km/hで市内を横断する無料道路。今でも時間当たりの交通量全国二位の道路です。

この道路のおかげで、20km離れたラウンドワンまで20分程度で車移動が可能です。

公共交通を利用するよりも圧倒的に利便性が高く、自家用車依存の街になってしまいました。

バイパスの大成功が公共交通の衰退に拍車を掛けてしまいました。

 

商業に目を向けると1973年に新潟西港から近い万代シテイにスーパーダイエーがオープンします。



今から見ると新潟地震以降急速に衰退したように見えますが、当時はまだ勢いは残っていて、ダイエー新潟店は1975年に全国一位の売り上げを記録します。全国一のスーパーマーケットの一番の店舗です。その頃はとにかく活気に溢れていました。振り返ると万代シテイは1980年頃が経済的に潤っていたように思います。

そのダイエーも1990年頃までは勢いを保っていましたが、新潟港付近の工場撤退が重なる2000年頃にはすっかり客も遠のき、2005年に閉店してしまいます。

今は撤退したダイエーの代わりに、郊外にできたイオンモール新潟南が隆盛を誇っていますが、街自体の勢いがなくなっているので、将来は明るくない気がします。

 

総合的に見ると明治以降の新潟は、稲作を中心とした農業と新潟港を拠点とした工業の両輪で発展してきた都市です。

同じ日本海側の都市として比較される金沢とは性格が異なります。

加賀藩からの歴史を大事にする金沢。

港町として歴史よりも発展を選んできた新潟。

 

発展を選んできたけど、様々な事情により衰退していく新潟。

歴史、伝統を大事にしてきたことが見直され発展している金沢。

 

新潟は当面、厳しい状況が続くと思いますが、交通の要所という地理的なメリットは変わることが無く、豊かな食文化もあるので、長い目で見て再評価される可能性も残されていると思っています。