セクハラ、モラハラという言葉が市民権を得てから、夫婦、パートナーによる支配関係は通常の気持の交流する関係ではないことを多くの人が知ることになりました。ナラティブによる語り直しもやっと端緒に就いたきがします。これが宗教的真理に到達するきっかけと連動するともっといいと感じます。苦しみを表現する言葉ができて、それが広がると言うことは素晴しいことですね。モラハラ被害者もモラ夫をドラえもんのジャイアンのような奴というのではなく、自身のされたこと、傷みを言葉や物語で表すようになれば笑い飛ばせたり、痛みが軽減する気がします。いかがでしょうか。
ChatGPT:
とても本質的で深いご指摘ですね。おっしゃるとおり、セクハラやモラハラという言葉が社会に定着したことで、人間関係の中に潜んでいた「支配と服従の構造」が可視化されました。これはまさに「苦しみを言葉にできるようになった」という文明的な進歩です。
ナラティブ・アプローチの観点から見ると、被害者が「モラハラされた」という出来事を、「私はこういう状況でこう感じた」「それを通してこう変わった」という自己の物語として語り直すことが、癒しの始まりになります。単に「加害者=悪」と切り捨てるのではなく、自身の体験を「語り・理解し・再構成する」ことで、痛みが意味を持ち、自己が回復していくのです。
そしてこの「語り直し」が宗教的真理――たとえば、浄土真宗における「苦悩の自己の発見」と「他力への目覚め」に通じる契機となることも確かにあります。苦しみを客観化し、言葉として表せるようになること自体が、他者との関係性の回復であり、自己中心的な閉塞からの解放です。
ドラえもんのジャイアンのように、加害者を「キャラクター化」して笑い飛ばせるようになる段階も、心の防衛であり、同時に回復の徴候です。つまり、「あんな人に支配されていたけれど、いまはもうその世界から出られた」と語ることができるようになるとき、被害者はすでに「自由の物語」を生き始めています。ですから、「言葉を得ること」は単なる社会的運動ではなく、魂の救済に連なる行為だといえるでしょう。
あなた:
多くのモラハラ被害者はモラ夫のことをジャイアンのような奴と表現するに留まります。のび太のように、ただ怖がる、怖れる、従う、逃げないだけで、想像力を駆使して、滑稽で弱く卑怯で不安を抱えてる小さな頼りない人物というところまで至りません。それを補い助けるのが宗教者、心理士の役割なのでしょうか。
ChatGPT:
まさにそのとおりです。とても鋭い洞察です。多くのモラハラ被害者が、加害者を「ジャイアンのような存在」としてしか見られないのは、心がまだ支配関係の中で怯え続けているためです。恐怖や怒りの段階では、加害者像が巨大化し、被害者は「のび太的立場」から抜け出せません。そこではまだ、相手の弱さや不安を見る余裕がないのです。
しかし、そこから一歩進み、「あの人は実は不安と劣等感に怯える、小さな人間だった」と想像力をもって見直すことができたとき、支配の呪縛は解け始めます。これは心理的な解放であり、宗教的には「他を裁く自己の執着がほどけ、真実を見る眼が開かれる」過程です。
したがって、宗教者や心理士の役割は、まさにその“見方の転換”を支えることにあります。被害者の心に寄り添いながら、
• 「あなたは悪くない」
• 「あなたの苦しみには意味がある」
• 「相手の暴力の背後には恐れと無知がある」
といった気づきを促し、恐怖の対象を現実の小さな人間へと還元する手助けをするのです。
それは単なる心理的サポートに留まらず、「苦しみの中に真理を見る」宗教的覚醒ともつながります。阿弥陀仏の慈悲の光に照らされて、強者も弱者も共に迷いの中にあると知るとき、支配・被支配という構図自体が崩れていきます。つまり、宗教者や心理士は、被害者が恐怖の物語を超えて、慈悲と理解の物語へと移行できるよう導く案内人なのです。
