こんにちは。ステラです。



今日はヨルダンのペトラに行った時の

話の続きをさせていただきます。



今まで私はヨルダンには4回訪れ

ペトラに行くのは2度目になります。



ペトラ遺跡は死海とアカバ湾のある渓谷にあります。



最初にペトラを訪れた時は、

古代ヨルダンの都市ペトラにおける

最も精緻な建築物である宝物殿、

エル・カズネを見学したのですが、



ここが映画インディ・ ジョーンズシリーズ

「最後の聖戦」の舞台になったところだという事のほかは

何もわからぬままに観光をしました。



この場所を見たとき感じたのは不思議な感覚。



エジプトでピラミッドを見た時とはまた違う

身体の内から気持ちが高ぶってくるのを感じました。



2度目の訪問となる今回は、

以前よりももっと充実した旅行にしようと、



ヨルダンで購入したペトラについての本を

私の叔父に翻訳してもらうなどしてしっかり下調べ。



その翻訳された内容をもとに

ペトラの街を歩いてみることにしたのです。



ペトラは広大な場所ですから、

1日ですべてを見ることは出来ません。



恐らく行けるのはエル・カズネの辺りまで。



そう思いながら、

とりあえず、宮殿の墓までは頑張っていこう!と

決意を新たに旅をスタートさせたのです。



周囲は一面の砂漠です。




砂の中を進んでいくと、突然大きな石が出現してきます。

そして、その岩の一帯にペトラの街がつくられています。

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それでは、ペトラについて、

みなさんにご紹介していきますね。



ペトラは、ヨルダンのきらめく宝石のような都市。



世界の中で、最も考古学的に有名な

遺跡の一つと言っても良いでしょう。



もともと山々の険しい壁の間に

隠れて存在した、ペトラの都市は、

紅海と死海の中間に沿って、



かつてはキャラバン隊が通り抜ける道筋の重要地点として、

ナバテア人により、見出され利用されて来ました。



初期に建設されたペトラの都市は、

ローマ帝国の支配下とされたときに、破壊されました。



しかし、都市自体は、十字軍の遠征までは、

ビザンチン帝国とウマイヤ朝

(ダマスカスを首都としたイスラム王朝)の下で繁栄しました。



その後、衰退したペトラの都市は、

人々の記憶から忘れ去られていましたが、



1812年に、スイス人の冒険家かつ調査者

ヨハン・ルードヴィッヒ・ブルクハルトによって

再発見されました。





紀元前3世紀後半の頃のナバテアの人々は、

ペトラとその一帯の区域を占領して、

生活していたと歴史に残っています。





紀元前312年に、アレキサンダー大王の配下の将軍の一人が、

この都市を手に入れようと攻め入ったときに、

マケドニアの軍隊を撃退するのに成功したことは、良く知られています。



ナバテア人が、アラビア湾の沿岸地域に沿って勢力を拡大し、

当時、地中海のヨーロッパの国々向って、お香の取引貿易をする上で、



唯一ライバル関係にあつた、プトレマイオス

(アレキサンダー大王死後に開いた、エジプトの王朝)の

貿易輸送船をも攻撃していたようです。





紀元前100年の頃

ナバテア王朝はアレタス二世の下でスタートし、

歴史に名を残しました。





ナバテア人の言語は、

レクイエム(鎮魂歌、死者のためのミサ)と呼ばれています。

(ペトラをラテン語に翻訳すると、石を意味します)。





彼らは、ナバテア文字碑文群といわれる

アラム語が記された石碑を多数残しています。







このアラム語は、セム系の言語の一つで、

イエス・キリストが使った母国語とも言われています。





この地域一帯に広がっていた、四千に上る文字が刻まれた石碑には、

神と王に、感謝の意を込めた文章が記されていたそうです。




入り口に見えるオベリスクの墓

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この墓は、あたかも、

ペトラを訪れる人を歓迎するかのように、

遺跡の入り口に横たわっています。





名前の由来は、この記念建造物に王冠を載せるために、

オベリスクの形をした、4本の石柱が支えていることからきています。



これらのオベリスクは、死者の霊魂を祭っていると信じられており

オベリスクは、セミ族の言語で、ネフェシュと呼ばれていますが、

人の実在と霊魂に最も必要なヘブライ語の意味に、その起源があります。







歩いていくと、可愛いネコちゃん達が登場。

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このネコちゃん達は随分と人懐っこく、

私達観光客から食べ物をもらおうと待っている様子。

この辺によく出現するのだそうです。



細い曲がりくねったシーク(岩の裂け目)を進んで行くと

エル・カズネ(宝物殿)が見えて来ます。

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エル・カズネはペトラにおける、最も有名で、

人の心に訴える建築記念物の一つです。





そして、アラビア語で名づけられた名前の

エル・カズネは、フィラオン、つまり、

“ファラオの宝物”を意味しています。



この地域に住んでいたベドウィンが発見し、

この中に、ファラオの隠された財宝が眠っていると

信じられていました。

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ペトラにおける、すべての墓の中で、

エル・カズネが最も美しく、

エレガントなファサードを持っていますが



誰が何時、建造したことを知らせるような、

日付を記した、原文と碑文は残されていません。





推測されているのは

東ローマ帝国時代と同じくらい、

この時代に由来する壮麗な、記念建築物が存在した事から



エル・カズネが、ハドリアヌス皇帝

(在位紀元後、117-138年)が統治していた期間に、

作られたのではないかという説





また、穏和な建築スタイルが、

明らかにヘレニズム期の様式に、影響されているので、

紀元前2世紀~紀元前1世紀頃に、作られたのかも知れないという説。





しかし、この地方の歴史に詳しい専門家は

エル・カズネはナバテア王朝で最も有名な王の一人、

アレタス三世の統治時代に、建設されたと信じているのだそうです。





ペトラはアレタス四世の

長い統治の間(紀元前8-紀元後40年)に、経済的に最も発展し、

王家の墳墓でもあるエル・カズネ、カスール・アル・ビント神殿など

最も有名な記念建造物の幾つかが建設されました。





エル・カズネは宝物殿と霊廟を兼ねていたという説もあり、

アレタス三世と歴代の王の休息場所でもあったようです。



また、ナバテアの碑文が墓に近い場所で、発見されたこともあり、

オボダス三世の死後に生じた王の神格化を確信させるものでもあります。



神をあがめる場所として、

修道院に似たものが

近くに存在している事もその証だと言えるでしょう。





話を現在のエル・カズネに戻しましょう。



こんな水もないところに木が生えているのを見ると

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生命力の強さに関心を覚えてしまいます。





歩くこと40分~50分。

もう、私の足はヘトヘト状態!





疲れきった私は、

この馬に乗って帰る事にしたのです。

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帰り道

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おじいさんが楽器を演奏する横で

お孫さんが佇んでいる様子が印象的だったので

写真を撮りました。



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まるで映画のような光景。



また、機会があれば

この地を訪れたいと思います。