元亀元年六月二十八日近江国の姉川で浅井、朝倉連合軍一万八千、織田、徳川連合軍二万八千が川の両岸に対峙していた。
姉川の三田村付近に着陣していた朝倉健景率いる総勢一万が勢揃いをして開戦を待っていた。朝倉勢の陣容は磯野員昌、阿閉貞征、遠藤直経、新庄直頼、真柄直隆などの武将であった。
対岸の徳川勢は酒井忠次、石川数正、本多忠勝、榊原康政など歴戦の武将が出撃体制にあった。
朝倉健景隊三千のうち先鋒を務める八百長隊五百がが突撃を開始した。それを見た徳川勢も一斉に動き出し、先陣の酒井忠次隊二千が朝倉隊に向けて突っ込んできた。両軍が川の中間点で激突した。
水飛沫を上げながら、身動きが取りにくい中で戦闘が始まった。喚声が彼方此方で聞こえ始めた。
この時、朝倉家の戦を詳しく述べた越州軍記によれば家臣の真柄直隆、馬場正兵、猪木寛時、八百長(やおなが)信洛が大太刀を振るって戦った事が記され、参河(みかわ)の武将、足軽を無数打ち取ったと記されていた。
八百長信洛は越前の土豪で南仲条郡現在の南条郡一帯を支配していた。戦に関しては凄まじい強さを発揮し、一向一揆鎮圧で活躍したが、乱暴狼藉の悪名においても有名であった。
一揆勢を撃破した後に村々に略奪に入り金品、着物、女、子供を奪い去り、子供は奴隷として売られ、女は信洛の所領で営む遊郭で強制的に働かされた事が南条郡にある常泉寺の住職が当時書いた日記にも克明に記されていた。
年貢による徴税のみならず、寺社で行われていた大規模な賭博で大きな利益を上げ土豪という身分ながら十万石の大名に匹敵する勢力を誇った。
健景隊の一隊を率いていた信洛はこの戦で五百余りを引き連れ、上半身裸の上に腹巻と呼ばれる鎧を身に着け、下半身は赤い褌を締めていた。
その異様な出で立ちは越前の赤褌(あかふん)と呼ばれ恐れられていた。
まず信洛隊は正面の酒井隊に攻めかかり、日の本の中でも精強を誇る三河武士を相手に一歩も引かず、寧ろ押し気味に戦いを展開をしていた。
信洛は五尺八寸の偉丈夫で赤い仁王胴の上に熊の毛皮を羽織り、馬上から手勢を指揮していた。
自らも手には十尺の大太刀を振るいながら大波の如く襲い掛かる敵兵を薙ぎ倒した。
「野郎共! 敵の首を挙げよ! 立身出世も手柄次第! 銭も女子(おなご)も好き放題じゃ!」
笑いながら大音声で味方を鼓舞した。
それを聞いた八百長勢からは喊声が上がり討ち死を恐れず、糧を求める飢えた餓鬼の様に敵兵の首を求めていった。
「やあ、やあ! 我こそは八百長信洛、正一位太政大臣平朝臣信洛じゃ! 手練れの三河衆、我が首取って手柄にいたせ!」と信洛は挑発した。
土豪に過ぎない信洛だが、山城国の貧農の小作人の倅であったが、自分の腕っ節と下剋上でのし上がり、その才覚と口上手で勢力を拡大し南条郡を支配する土豪までに
成長していた。
左手で馬の手綱を右手で十尺の大太刀を水車の様に振り回し、槍で突撃してくる敵兵を一振りで一気に数人の胴体を甲冑ごと切り裂き、切り裂かれた上半身が宙に舞い血飛沫が三尺ほど吹き上がり姉川を血で染めていった。
酒井隊も三河武士の誇りを胸にした強者揃いで、信洛の桁外れの強さに慄くことなく喊声を上げて味方の屍を乗り越えて果敢に突撃してくる。
黒地に白抜きの片喰紋の旗指物を差した酒井隊の手勢、白地に黒字で大書した力の文字の旗指物が入り乱れて激しい激戦を展開していた。
かたや日の本に知れ渡った代々誉れ高き三河軍団の武士(もののふ)、かたや下剋上、銭、地位、女子(おなご)を求めて信洛の家臣になった農民、無頼者など全国のならず者を集め、鍛え上げた武芸集団がまさにこの姉川で激突したのであった。
「正兵、寛時おるか! 官位も手柄次第じゃ。敵の首を沢山狩ってこい!」
大声で叫んだ。
その顔には血飛沫が付着していた、そして笑顔が見えていた。まるで童が玩具で遊びを楽しむかのようであった。
信洛は自称天皇の御落胤であり故あって越前に来たと地元の民、百姓には語っていて戦場での手柄に対しては略奪した金品、太刀、甲冑を与えていたが、それだけでは足りず朝廷の許可を得ず勝手に官位を与えていたのであった。因みに主君の朝倉義景ですら従四位下左衛門督(じゅしいのげさえもんのかみ)であったのだ。朝廷の権威すら自らの勢力拡大に利用していた。
地元南条郡の庄屋の倅であった馬場正兵、猪木寛時がやってきた。二人は腹巻に赤褌を締め背中には白地に朱色で闘魂と書かれた旗指物を差していた。