前回までのあらすじ
マルガレーテシュタイフは、4人兄弟の3番目の子どもとしてデアブレンツギーンゲンに生まれ、わずか1才半のとき両足と右手が不自由となる骨髄性小児麻痺と診断されましたが、マルガレーテシュタイフは陽気で快活な性格を持ち合わせていました。両親は、彼女を甘やかさず二人の姉と共に学校へ通わせました。
マルガレーテは裁縫を学び、17歳の時に裁縫師としてトレーニングを完了した。
1862年にマルガレーテは、姉の二人マリーとポーリーンと共に自宅で針仕事を請け負うようになり、その仕事が評判となり顧客はどんどん増え、ギーンゲンで最初のミシンの個人購入者になりました。
やがて、姉たちは結婚で実家を出ますが、マルガレーテは単独で仕事を続けました。
1874年にマルガレーテの父親は、家の2階の書斎を小さなテーラーショップに構築した。
姉の夫「アドルフ グラッツ」が1877年に彼女を自立に向けた一歩を踏み出させ、アドバイスや経済面でもサポートしました。
1879年12月にファッション雑誌でフェルトで作る小さな象の型紙を見つけ、小さな象の針刺しを作り大人気となる。
弟フリッツは、ハイデンハイムの市で象を売ることを思いつき、マルガレーテと針子たちは2つの大袋を象で一杯にして売るとフェルトの象は、すぐに完売になり大成功をしました。
1880年が、シュタイフ社の創業の年とされました。
年々売り上げも伸び続け、マルガレーテは両親の家を離れミュール通りに仕事場兼自宅を完成させました。
1892年には、最初のカタログも印刷されました。
マルガレーテの甥(リチャード、フランツ、オットー、ヒューゴ、パウエル)がシュタイフ社のビジネスに加わり、
リヒャルトが、本物のようなクマのぬいぐるみ「Bear 55 PB」を考案しセント・ルイスで開催された世界博で大ヒット商品となり、シュタイフ社は最高のグランプリ賞を授与されました。
クマのぬいぐるみ「Bear 55 PB」は、セオドア・ルーズベルト大統領のニックネームにちなんで「テディベア」と呼ばれるようになる。
シュタイフ社のぬいぐるみが人気上昇のころ、粗悪な類似品が出回り、シュタイフ社がブランドの看板となるボタン イン イヤーを1904年に開発しました。
1906年には社名を「マルガレーテ・シュタイフ社」と改名しました。
マルガレーテの波乱に富んだ人生の終わり
マルガレーテシュタイフは肺感染後、1905年5月9日に61歳で天国へと旅立ちました。
このことは、シュタイフの家族や友人、従業員の心に衝撃的なダメージを負わせました。
マルガレーテは、子どものいる人には会社に連れてくること認めまた障害を持つ人に仕事を与えるななど、この当時19世紀では珍しく開かれた会社でした。
マルガレーテの甥が、彼女の夢と精神を受け継いで、機械には頼らず、ひとつひとつ真心を込め手作りしてゆくことを誓い会社を引き継ぐことになります。