本記事オーサー(解説者)は「『1人で死ね』という考え方が広がると逆に追い詰められる人が出てくる」と指摘。確かに、社会から隔離された立場の人がいた場合、「1人で死ね」と言われるほど反発し他者を巻き込むケースが生まれるでしょう。しかし、だからと言って“巻き込み死”を肯定する人間はいません。上記の三輪弁護士が言うように。
そのことについては「『きっと社会の救いの手が差し伸べられるから』と呼びかけるべき」という指摘があります。これは「誰かがお金を寄付する」等ではなく、私達の普段の他者への接し方にあると私は思います。
私達はお店で店員さんから微笑んでもらうだけでも心の中に温かな“絆”を感じます。例えば、我が国の犯罪史上最も残忍な事件の一つである「津山30人殺し事件」(昭和13年)で30人もの村人を殺した犯人都井睦雄でさえ、「(お前の家は)自分が恨みを持っている家から嫁をもらった」という理不尽な理由である一家を襲った一方で、「お前は悪口を言わなかったから殺さないでおいてやる」として殺害しなかった相手もいたとされています。都井は精神的に極度に混乱しながらも、優しく接してくれた友人の存在を忘れずにいたのです。
つまり、何気ない言動(例⇨https://ameblo.jp/stc408tokubetusien/entry-12365150177.html)で人と人とが心の絆で繋がることが「社会の救いの手」です。
因みにこの「救いの手」が最も必要なのが家族です。幼い頃に親からこのような接し方をされた子どもは大人になっても安定した人格を保持し、社会から隔離されたりはしませんが、逆の場合は、成人後も不安定な人格のために様々な不適応行動を起こすリスクがあると専門家は指摘しています(⇨https://ameblo.jp/stc408tokubetusien/entry-12364364609.html)。
《補足》
先日、地域の健康診断に参加しました。体育館が待合場所になっていたのですが、館内は朝から物凄い暑さでした。近くの鉄の扉を開けたらその外には更にシャッターが!そこで、近くにいたスタッフの女性にお願いしたところ快く開けてくれました。その方の穏やかな物言いや優しい表情のお陰で温かい気持ちになり、長い待ち時間もさほど気にならなくなりました。これこそが“社会の絆”だと思います。
仮にこの時、社会的に追い込まれている人が、“ぶっきらぼう”な態度でスタッフから応じられたらどんな気持ちがするでしょうか?「どうせ俺なんか!」でしょうか?
例えば、私達がちょっとだけ「相手を見て微笑む」を意識するだけで、家庭でも職場でも疎外される人はかなり少なくなると思います。