「結果」か「努力」か。スタンフォード大学で行われたある実験
   スタンフォード大学の心理学専門のキャロル・S・ドゥエック教授が、小学生に対して次のような実験を行いました。
   ABグループとも同じテストを出して
  • Aグループには「よくできたね。頭がいいわね」と“結果を褒める。
  • Bグループには「よく頑張ったね」と“努力を褒める。
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  •  その結果、頭の良さをほめたAグループは、新しい問題を避け、同じ問題を解こうとする傾向が強くなりました。「結果」でボロを出して自分の能力を疑われるかもしれない新しい問題に対しては不安意識を抱き、一切やりたがらなかったのです。一方、「努力」を褒められたBグループは、更に難しい問題にチャレンジし、積極的に挑戦する姿勢が見られたそうです。
     
    普段私達は「結果」を褒めているか、「努力」を褒めているか。
     さて私たちは、もしも子どもがテストで100点をとってきた時に、何と言って褒めるでしょうか?「すごい!100点とったの?」「100点とってえらいね!」等と褒めることの方が多くないでしょうか?その一方で、子どものケアレスミスで95点だったら、どんな言葉をかけるでしょうか?おそらく「もったいない!どうしてこんな間違いしたの?これさえなければ100点だったのに。」等のように100点をとれなかったことを残念に思う言葉をかけるのではないでしょうか。
       また、運動会では、子どもを「がんばって3位には入れるといいね!」と励まし、1位をとれば「1位?すごい!」と褒め、4位をとれば「4位かあ。残念だったね。」と残念がる言葉をかけるかもしれません。

    “親の基準”に心を乱される子ども達
       つまり、“親が期待する基準ありき”で、親は子どもがその基準をクリアすれば褒め、それに届かなければ残念な顔をするのです。しかし子どもは、そういう経験を重ねていくうちに、「その基準に達しない時には親の愛を受けることができない」と思い込みます。先の例で言うと、「100点でないとほめられないんだ」とか「3位までに入ってリボンをもらわないと喜ばれないんだ」、更には「100点が好きなだけなのかな?」「入賞リボンが好きなだけなのかな?」と思うようになるかもしれません。しかし、それでも子どもは、何とか親から喜んでもらえるような「結果」を出せるように頑張ります。とは言え、常に親が喜ぶような結果を出せる時ばかりではありません。テストで80点をとって帰った時には、「親からどんな顔をされるだろうか?」「テストは見せない方がいいだろうか?」等と不安な気持ちになります。
     この状況は、子どもは親子間の「愛着(愛の絆)」の存在を確信できず、親との“愛の絆”が切れてしまうのではないか?という不安定な精神状態に陥っている状況です。つまり、「不安型」愛着不全を病んでいるのです。更に、事態はそれのみに収まらず、「結果を出せない人間は価値のない人間だ」という誤った価値観を持った人間となり、その見方で他人を判断してしまうようになることも十分考えられるのです。
     
    「努力」を第一に考える親
     しかし、冒頭の小学生に対する実験のように、「結果」ではなく、「努力」を褒めたとしたらどうでしょう。
     テストで100点をとった子どもには、「よかったね!がんばって勉強したからだね!」、徒競走で1位になった子どもには「がんばって走って偉かったね!」。その一方で、がんばって勉強したのに70点しか取れず落ち込んでいる子どもには、「でも、頑張って勉強してたよね。」、頑張って走ったのに4位だった子どもには、「がんばって走っていて立派だったよ!」等と褒めます。
       逆に、特にがんばった様子はなかったのに、偶然いい点数が取れた子どもには、「もっと頑張らないと、次は点数が下がるかもしれないよ。」と。自分の足の速さを過信し流して走って1位をとった子どもには、「あの走り方はなんですか?!もっと頑張って走って本当のあなたらしさを出しなさい。」と、努力不足を注意します。
     
    「努力」を褒められる子どもの幸せと成長
     すると子どもは、「お父さんやお母さんは、努力できる自分が好きなんだ。」と認識し、努力を惜しまない子どもになります。「努力」は「結果」と違い、子どもの気持ち次第で決まりますから、努力を惜しまない子どもと親との間の「愛着(愛の絆)」もぶれることはありません。
       更に子どもは、「『結果』よりも『努力』できる人間こそ価値があるのだ」という価値観を持てるようになり、「結果」に左右されない心の強い人間に育つのです。