【今回の記事】

【記事の概要】
①記者:日頃から監督の指示に対しては、否定できないという空気だったんでしょうか?
宮川:そうですね。基本的に監督と直接お話する機会はあまりないんですけど……意見を言えるような関係ではなかったですね。
記者:「厳しい」という言葉が部内でありましたけども、厳しい中に「理不尽」ということも多々ありましたか?
宮川:理不尽といえば理不尽な部分もあったかもしれないですけど、練習のキツさもすべて含めて、去年の結果も出たと思ってるので、理不尽なこともありながらも練習していました。
記者:ご自身にとって、監督、コーチ、信頼はありましたか?
宮川:井上コーチに関しては、高校2年生の時から監督をやっていただいていたので、その頃から信頼はしていたかもしれないです。
記者:内田監督については?
宮川:内田監督については、そもそもお話する機会が本当にないので、信頼関係といえるものは分からないです。

②故・篠竹幹夫元監督は1959年から44年間にわたって日大アメフト部の監督を務め、日大「フェニックス」を17度の学生王座に導くなど、黄金時代を築いた絶対的な威厳と支配力を持つカリスマだった。

   指導法はいたって厳しく時にスパルタと呼ばれた。そのやり方に周囲からは批判の声も多かったが、多くの「フェニックス」OBは、篠竹氏を「オヤジ」と呼んで没後12年を迎える今日でも敬愛していると言う。
「オヤジは選手と一緒に風呂に入ったり、マージャンを教えてくれたりして選手とコミュニケーションをとっていた。スパルタと世間は言うけど、自分はそうは思わない。楽しかったですよ。そこには『へたくそ』を『日本一』にしてやるというオヤジの気持ちがあったから。信頼できたんです。内田さんこそがオヤジのやり方と乖離したんです」と「フェニックス」OB。

【感想】
   選手たちと一緒にお風呂に入ったり、麻雀をしたりするなど、選手たちとのコミニケーションを図っていた“オヤジ”こと篠竹元監督。
   その中では、篠竹氏は、子供たちと視線を合わせたでしょうし、選手たちに笑顔で接したでしょうし、選手達に親しく声をかけたでしょう。また、風呂場では選手達の背中を流してあげたり流してもらったりとスキンシップを図っていたかもしれませんし、麻雀をしながら選手達の話を聞くなどしたことでしょう。それらの行為そのものが、子供との間に「愛着(愛の絆)」を形成するための愛情行為「愛着7」、正にそのものだったのです。
   逆に、内田氏と選手達との関係は、ほとんど話をしたこともないほど希薄でした。子供との間に“愛の絆”を築くためには、篠竹氏のように、子供と直接コミニュケーションをとりながら「愛着7」のような愛情行為を施さなければ到底無理なのです。宮川選手が記者会見で述べていたように、内田監督に対しては“信頼感”などというものは存在しなかったと思います。

   内田氏は、篠竹氏のスパルタ式の厳しい練習は受け継いだのですが、残念ながら選手と心を繋ぐコミュニケーションの面は受け継ぐことはありませんでした。内田氏との「乖離」があったのは、宮川選手とではなく、篠竹元監督の“対教え子観”との間にこそあったのです。

   私事で恐縮ですが、現職の頃は、小学校の課外活動だった吹奏楽部の指導を担当していました。コンクールにも参加していた為、練習もかなり厳しいもので、特に本人の努力不足による失敗に対しては、できるまで何度でもやり直しをさせていました。
   しかし私は、練習が終わり子供達が楽器を片付けている間に、廊下に出ていて子供達が練習教室から出てくるのを待っていました。そして、出てきた子供達をニコニコ笑顔で迎えました。すると、練習では私からかなり厳しい言葉をかけられた子供達も、自分から「ありがとうございました。さようなら!」と私に元気に声をかけてくれました。「ニコニコ笑顔で迎えた」、そこで私が行っていたのは、「子供達と視線を合わせる」ことと、「子供達を微笑む」ことだけでしたが、たったそれだけでも、子供達との間に“愛の絆”ができているという手応えはありました。

   相手の人格を傷つけたり体罰をしたりしなければ、厳しい指導はあって構わないと思います。ただし、厳しさだけでは子供達と心を繋ぐことはできません。子供達と直接コミュニケーションをとり「愛着(愛の絆)」を築いてこそ、子供達からの“信頼感”を得ることができるのだと思います。