前回の続き)
   私は、この研修後に自分の所属校に戻り、さっそくその実践を試みました。
   例えば、毎朝の出席確認です。子どもの名前を一人ひとり呼んでいくと、中にはとても元気な返事をする子どもがいます。ほとんどの教師はそういう子どもを褒めます。しかし中には、細々とした蚊の鳴くような小さい声しか出せない子どももいます。子供には大胆に振る舞える子供もいれば、そうでない子供もいます。色々な個性の子供がいるそれが自然です。しかし、そんな子どもに対して、「声が小さいよ」等と注意すると、子どもは益々委縮してしまいます。子どもの「ありのままを受け止める」ということは、その子の個性を認め「うんうん、あなたなりに頑張って返事したんだね」と、教室の中で一人だけで声を出すという緊張する場をその子なりに頑張った子どもの返事を教師の笑顔で受け止めるのです。すると子供は、「先生は、『今の自分でいい』と認めてくれた」と安心します。安心した子どもは、緊張がほぐれ、肩から余計な力が抜けます。注意されないと安心した子どもは、次の日から、笑顔で返事をするようになります(「あるべき姿になる)。その子が委縮していたのは、「『声が小さいよ』と注意されるかもしれない」と緊張していたからです。「この先生は自分の返事を注意せず受け止めてくれる」と分かった子は安心して本来の自分の力を出そうとするのです。

   また、掃除時間中にろうかを歩いていると、普段みんなから問題児扱いされている発達障害の子どもが、ふざけている場面に出くわします。すると私はその子を見て、ニコニコと微笑みながら「ちょっとふざけちゃったね。でもあなたなら直せるよね」と言います。なにせ相手は、掃除中は(“環境”が整っていないため)大抵ふざけてしまうのが発達障害の子どもの普通の姿です。それどころか、発達障害の子供でなくても、掃除中はついふざけてしまうものです。そんな未熟さを持っているがゆえに子ども達は学校に通って修行しているのです。ですから、ついふざけてしまったその子の子どもが誰でも持っている未熟さ”をありのままの姿として受け止めたうえで、この子はきっと行動を改めることができるだろうと、肯定的に捉え信じたのです。
   自分を受け止めてもらったその子供は、ちょっと苦笑いをして行動を改めます。すると私は、そのいたずらを止めた態度に対して「よく気づいたね」という称揚の表情で「うん、うん」と笑顔うなずきながらその子を見守ります。すると、その子は更に活動を頑張り始めます。そして、ダメ押しに、掃除が終わった後にその子のところに行って、「さっきはよくいたずらを直したね。そして、その後も一生懸命頑張ったね。」と頭を撫でて褒めます。
   その一方で、“子どもが誰でも持っている未熟さ”というありのままの姿に反して、子供に完璧を求める大人は、その様子を発見すると、否定的に捉えて直ぐ注意するでしょう。すると、どうしてもふざけがちな子供は「先生に見つからないようにしないと…」と、その教師に警戒心敵対心を抱きます。それは、わざわざその子の「反発スイッチ」をONにし、ますます教師に対する反発心をあおるようなものです。

   また、私は、生徒指導主事という、学校内の子どもの問題行動に対して指導する役目をしていました。時には、生徒指導上、法に触れるような大きな問題を起こした子どもを指導したこともありました。子供ですから、まだ社会のルールを全て分かっているわけではありませんし、それに関わる経験も不足しています。ですから、時には大きな問題を起こす時もあります。それが未完成な子供の姿というものです。しかし以前の私は、まるで完成した大人に対して話すが如く、「今回あなたは、人として許されない事をしてしまい、周りの人からの信頼を失いました。これからの生活ではその人たちからもう一度信頼してもらえるようにがんばりなさい。」という、事の重大性を知らせようとする指導をした時もありました。しかし、その時そう言われた子どもの中には、私から自分の人間性を根本から否定されたような気持ちになって、私から心が離れその後の生活意欲がすっかり減退してしまった子どももいました。
   今私がまず始めにすることは、「事実の確認」です。これをとばしていきなり注意から入ると、時として、実はその子に非は無かったのに間違って注意してしまったということがあるからです。もしもそのようなことがあれば、これまで築いてきた教師に対する信頼感が崩れ去ってしまうことになります。
   さて、事実を確認したら、次に「その子がそのことをしたくなった気持ち」を受け止めます。その子の“ありのままの気持ち”を受け止めるのです。例えば、「そうだったの。お友達とけんかをしてムシャクシャしていたから石をなげちゃったのね。その石が間違ってお友達に当たっちゃったんだね。」すると子どもは小さな声で「うん」とうなずきます。自分の気持ちを受け止めてもらった子どもは、その後の私の注意を素直に聞く用意が整います。心を開いたのです
   ここから指導に入ります。子どもから確かめた事実に応じて注意するのです。「でもね、……」、私の表情は毅然としたものになり、語調も厳しくなりますが、その時の子どもは私の目をしっかりと見て話を真剣に聞くことができます。そして、自分のしたことが“なぜ”いけなかったのか、どうしていればそのような失敗をしないですんだのか、を自分で考え自分の口で話すことができます。子どもの気持ちを受け止めず、大きな声で叱責だけすると、教師から子どもへの「怒り」の一方通行になってしまい、子どもは自らの行いを振り返る余裕など無くなってしまうのです。「なぜよくなかったのか」を子どもに考えさせて、「これからどんなことに気をつけて生活していけばいいか」をその子の口で言わせる、そうすることで、初めて子どもの“確かな知恵”として身につくのです。

   この支援方法は、発達障害愛着不全と思われる子どもほど効果があります。普段から、周囲から問題児扱いされることが多いと、自分のありのままの気持ちを受け止めてくれる大人が現れた時に、「自分の気持ちを受け止めてもらった」という“喜び”にも似た意識が働き、心から反省しようとする気持ちが湧くのでしょう。
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   “失敗がつきものの子ども”のちょっとしたいたずらやふざけを受け止めること、それは、いわば「失敗の受容」と言えるかもしれません。本来未熟な子供に対して完璧を求め、失敗を責める指導を続けていると、子供は行き場を失い、その防衛本能として失敗を隠したりをついたりするようになります。先に紹介した「山手線の子どもたち」でのエピソードも、“本来おしゃべりが大好きな子ども”のありのままの姿を受け止めたものでした。すると、その後子どもたちは、おしゃべりをピタリと止めました。

   私は、この「子どもの『ある』を受け止めれば、子どもは『なる』」という指導方法によって、これまでの教師経験の中で、子ども達との最も充実した毎日を過ごすことができました。