前回からの続きとなりますが、水戸藩に囁かれている都市伝説(
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それは …
もし万一、水戸藩の出身者が将軍になると、幕府が崩壊するので、将軍を出してはいけない
前回も触れましたが、これは結果論ではなく、徳川家康の時代から伝わることです。
そして少なからず、そのような過程を築いたのが、他でもなくこの人物…
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です(
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暴れん坊とは、暴れん坊将軍…
江戸幕府第8代将軍・徳川吉宗のことです。
前々回に引き続き今回も登場。
吉宗は自身を「徳川中興の祖」と位置付け、先祖である家康を習い、吉宗は…
自らの血を引く者を将軍後継者として残したい
という意図があったのではないかと思われます。
そもそもその吉宗が習った家康には、自身の血統が絶えぬように…
家康自身の血統を未来に繋げ、その者が、代々将軍に就けるという “血筋の系譜”
を守るために「御三家」を創設。
けれども、思いもよらないところで綻びができます。
それが吉宗の「御三卿」の創設です。
御三卿とは…
吉宗次男の徳川宗武を始祖とする “田安” 徳川家
吉宗四男の徳川宗尹を始祖とする “一橋” 徳川家
第9代将軍・家重の次男徳川重好を始祖とする “清水” 徳川家
この “三家” のことです。
ここでいう “家” とは非常に分かりづらい概念ですが、水戸藩のような「藩」とは違うのです。
「藩」には、当然ながら藩主がいて、その家臣団が藩を支え、藩主が治める領地があり、その領地には多くの人々が暮らしています。
一方の “家” とは、基本的に治める領地があるわけではなく、江戸城内に邸を構え、10万石相当の大名として扱われていました。
石高は少ないのですが、実は非常にここがポイントで…
格とすれば、御三家に劣る御三卿であっても、当時の幕府からすれば、御三家よりも強い血筋である御三卿から将軍を出す方が現実的だったと言えるのです。
大河ドラマ『西郷どん』で、一橋慶喜(ひーさま)が、薩摩藩の国父である島津久光に向かって…
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呼ばわり出来るほどですから、その身分の違いが分かります。
一橋慶喜に関しては、後程詳しく…
因みに、御三卿の名称ですが、江戸城の田安門、一橋門、清水門から拝借したとのこと。
繰り返しますが、吉宗は自身の血筋が絶えぬように、田安家、一橋家、清水家の御三卿を創設したと考えられています。
要するに、徳川宗家に世継ぎがない時は、吉宗自身の血を受け継ぐ、この御三卿の中から選べということです。
また御三卿の創設には、紀伊藩出身の吉宗が、尾張藩出身者を将軍に就けるのを排除する狙いがあったとも考えられいます。
紀伊藩、尾張藩、そして水戸藩の三藩を称して御三家と呼んでいるのですが…
では、水戸藩の出身者が、全く将軍の候補に挙がらないのはどういう理由からでしょうか。
それにはいくつか理由があるのですが、一つには、それは前編で触れた通り…
水戸徳川家の役割は、幕府と朝廷の間で対立が起きた際、徳川の血筋を守るために朝廷側に就くこと。
これは徳川家康の意向によって、水戸藩の初代徳川頼房の代から定められていたことで藩訓にもなっていました。
徳川宗家に跡継ぎが出ない場合、将軍候補を送り出せる家柄でありながらも、朝廷側に就いて徳川家を陰で支えるのが水戸藩に課せられた宿命。
その代わりに水戸藩には、永代、副将軍の名称を用いることを黙認している節もあるのですが、副将軍とは、あくまでも “副” であり、正将軍を出す家柄ではないとされています。
さらには、朝廷から与えられる官位でも、尾張家と紀伊家が “従二位権大納言” だったのに対して、水戸家は “従三位権中納言” でした。
そのために、水戸藩は御三家の中では、やや格下と考えられ、将軍の跡継ぎが途絶えた場合も、後継者を出すのは、やはり、尾張藩か紀伊藩に限られていたようです。
余談ですが、水戸黄門のドラマの中での決まり文句…
先の “中納言” 水戸光圀公にあらせられるぞ
一同のもの
ご老公の御前であるぞ
頭が高い控えおろう
というセリフですが、水戸藩が中納言家であったことを表しています。
しかしながら、歴史が下ると、この御三卿の創設が思いもよらない事態を引き起こします。
時は幕末…
一橋家の跡取りがいなくなり、何とかして家を残そうと、一橋家では養子を迎えることになりました。
そして一橋家に養子に入ったのが、後に、最後の将軍となる徳川慶喜です。
徳川慶喜は水戸藩の出身ですから、子供の頃から尊王思想を叩き込まれていたはずです。
しかも、徳川慶喜の生母は皇族出身者…
ここで登場するのが、慶喜の父・その激しい性格から “烈公” と呼ばれた徳川斉昭です。
この当時、ペリーの来航によって、日本国内が一気に緊張で包まれる中、第13代将軍として徳川家定が就任しました。
ところが、家定は極めて病弱で跡継ぎもいなかったため、その将軍就任後間もなく、徳川将軍家の跡継ぎ問題が浮上することとなりました。
この時、老中首座・阿部正弘の安政の改革によって、発言権を増していたのが、薩摩藩主・島津斉彬や越前藩主・松平慶永、土佐藩主・山内豊信、宇和島藩主・伊達宗城などの雄藩大名…
これらの大名たちは、水戸藩前藩主の徳川斉昭の第7子・慶喜の擁立を模索します。
慶喜は英明の誉れ高く、第12代将軍・家慶にも重用されて、御三卿の一つである一橋家の養子となっていたことは前述しました。
特に、薩摩藩の島津斉彬は、慶喜を将軍とすることで、ペリー来航以後の国難に対処することができ、さらに譜代大名が独占する幕政の改革が一気に進むものと期待していたのです。
水戸の前藩主・斉彬を中心とした幕政改革派大名たちは「一橋派」と呼ばれ、同派には、老中の阿部正弘も同調していました。
これに対して、雄藩の政治参加を警戒していた譜代大名など保守派は、一橋派に対抗し、紀伊藩主の徳川慶福(後の家茂)を擁立すべく動き始めました。
慶福はまだ幼かったものの、家定の従兄弟にあたり、慶喜よりは将軍家としての血筋が近かったのです。
これらの勢力は「南紀派」と呼ばれ、その中心となったのは、江戸城の溜間(たまりのば)と呼ばれる詰所に控えた大名たち。
溜間詰と呼ばれたこの勢力は、親藩及び譜代大名の一部で構成されており、そのリーダー格となったのが彦根藩主の井伊直弼でした。
しかしながら、徳川斉昭にとってこれが癪の種だったのでしょうか。
何としても水戸家の血筋から将軍を出したい
家訓をねじ曲げても、それが斉昭の悲願とさえ言えるのかも知れない。
けれども、ここで思い出さなければならないのが この都市伝説…
もし万一、水戸藩の出身者が将軍になると、幕府が崩壊するので、将軍を出してはいけない
このように、まことしやか囁かれたのは、水戸藩の特殊な存在…
繰り返しますが、水戸藩の存在とは…
水戸徳川家の役割は、幕府と朝廷の間で対立が起きた際、徳川の血筋を守るために朝廷側に就くこと。
そうして幕末になると、水戸藩第2代藩主・水戸光圀の時代に体系化された “尊皇” を中心とする学問を発展させ、水戸の尊皇思想に外国勢力を排除する “攘夷思想” を組み込むこととなった…
この学問は幕末になると尊王攘夷の「水戸学」として全国に展開されていきました。
それがいわゆる「尊王攘夷論」と言われるものですが、水戸藩はその急先鋒となり、幕末にその中心となったのが9代藩主の徳川斉昭。
そしていよいよ、徳川家康が最も危惧していたことが現実に起ころうとしています。
その家康が危惧していたこととは…
天皇家を担いで徳川に反抗するものが現れるかも知れない。
それがもしかしたら、天皇家と徳川家の戦いに及ぶことは可能性としては否定できない。
ならばその起こってて欲しくはないが、起こりうる事態に備えて、手を打っておくことが必要であるとの考えが家康にあったことは、前編の冒頭で触れた通りです。
水戸藩だけは、徳川宗家の事など考えず、天皇 = 朝廷の味方をすることが最良ではないかとの考えです
これ言い換えれば、どうなるのか…
尊王攘夷思想の急先鋒である水戸藩出身者が将軍になれば、覇者である徳川家よりも、王者である天皇家の方が、この国を治めるリーダーには相応しく、徳川家を廃して、天皇を中心とした中央集権国家を構築することを示唆
もし万一、水戸藩の出身者が将軍になると、幕府が崩壊するので、将軍を出してはいけない
都市伝説のように囁かれながらも、都市伝説というよりも、むしろ、筋道の通った論理的な考え方です。
そう、都市伝説とは、非常に論理的な考えのもとに語り継かれていることが多いのです。
欧米列強の脅威を目の当たりに、国内を二分化し日本人同士が争うことになった幕末。
徳川家康が天下統一を果たして以来、260年もの長い間、盤石であった徳川幕府を滅ぼしたのは、尊王攘夷を掲げた下級武士たちでした。
ここで改めて、尊王攘夷とは、天皇を尊びその天皇を頂点に仰ぎ、外国(夷狄)を打ち払うという思想です。が…
皮肉なことに、この思想を世に生み出したのは、本来であれば、朝廷側の立場でありながら、幕府を支えるはずの御三家であった水戸藩だったのです。
結果、水戸藩は幕末の攘夷志士たちに、尊皇思想を芽生えさせました
ここで一つ、疑問に思われることがあると思いますが、このような水戸藩の下級武士たちが、何故に、明治維新に活躍しなかったのか。
実は徳川斉昭の死後、藩内は攘夷派の「天狗党」と保守派の「諸生党」に分裂し、内乱状態に陥ります。
「諸生党」に敗れた「天狗党」は、京都にいた徳川慶喜を頼って西へ向かうのです。が…
けれども、なんと!?
一橋慶喜が追討軍を出したことを知って加賀藩に降伏しました。
この当時の水戸藩の天狗党は、略奪や強盗などの騒ぎを起こす大軍勢で、朝廷や幕府から見たら反乱軍です。
慶喜にとって天狗党とは、自分の立場を危うくする存在だったのでしょう。
さらに水戸藩では、実権を握った諸生党と天狗党の残党が合わせて、数百人の死者を出すほどの抗争を繰り広げ、藤田小四郎や武田耕雲斎などの人材を失ってしまったのです。
こうして水戸藩は、世の流れから置いてけぼりにされてしまったのです。
尊王攘夷の思想だけが独り歩きしてしまったの如く、水戸藩のみならず国内をも分断していくことになり、ついには徳川幕府をも倒してしまう “きっかけ” となった水戸学。
水戸藩出身の慶喜は、徳川幕府の将軍である一方で、幼い頃から水戸学に慣れ親しんでいるのは当然のこたとであり、幕府の政治姿勢も勤皇とならざるを得ないでしょう。
慶喜が朝敵となる鳥羽・伏見の戦いで、新政府軍と全く戦わなかった理由もよくわかります。
こうして、水戸藩出身の慶喜が将軍に就いたことにより、都市伝説よろしく、徳川幕府は崩壊しました。
けれども、歴史に詳しい方から…
結果、慶喜は8代将軍吉宗の代にできた御三卿の一橋家の養子であり、一橋慶喜が将軍になったのだから、水戸藩ではなく御三卿の一橋家から将軍を出したことになる!
とのご指摘を受けそうですが、それは実際には、歴史学上、正しい認識だと思われます。
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けれども、言葉の揚げ足を取る訳ではないのですが、ここでは御三卿 = 一橋家は関係ないのです。
あくまでも、尊皇思想の「水戸学」に精通している水戸藩出身の者が将軍に就任した故に…
幕府が崩壊したのです
それは徳川将軍と天皇家が対立した場合、水戸家とは、天皇家の味方に付き、徳川家を存続させるための十字架を背負った運命(さだめ)でした。
実際に、水戸藩の出身で、幕末の動乱期に将軍となったのは15代・徳川慶喜のみ…
もし仮に、水戸藩出身ではない家柄が、15代将軍となっていたならば、幕末維新、さらには日本の歴史そのものが、変わっていたかもしれません。
最後までお付き合い頂き、ありがとうございました。