74年前…
1945年8月15日は、日本がポツダム宣言を受諾し、戦争が終結した日です。
本ブログでは、8月15日に…
『「終戦記念日」 歌で綴る平和への想い』
と題して過去2回、日本を代表するミュージシャンたちの、メッセージ性の強い “歌詞” を用いて…
平和への想い
を綴り、その反面…
このままこの国は、どこへと流れて行き、何をしようとしているのだろう
かと。
今年は3回目となり、一旦、趣を変えて、では何故に日本が…
『太平洋戦争』
という暗黒の時代へと盲進してしまったのか?
以下、私なりに記録したものとなります。
当然ながら、教科書にあるような年表を時系列に並べたものではなく、むしろ、個人的見解を述べている部分が多いため、いわゆる事実と称されているものと隔たっていると思われます。
この記事は、あくまでも、学生時代から今日まで歴史に携わってきた、ある人間の批評だと解釈して頂ければ幸いです。
明治以来、日本は、“大陸の資源” や “広大な土地” を求めていました。
ここでいきなり補足となりますが、イギリスを中心とした列強諸国は、世界のあらゆる場所で「植民地」を獲得し、いわゆる、“侵略” 行為を繰り返していました。
つまりは、自国には、ほぼ存在し得ないものを植民地に求め、日本は、“大陸の資源” や “広大な土地” を、そこに求めたのです。
では、“大陸” とか “広大” とかは、何を示すかと云えば、それは中国です。
そして、この流れは、1930年代の世界を襲った大恐慌によって加速されます。
1931年、日本軍は満州事変を起こして、翌年には、満州全域を占領。
満州国を建国してしまいます。
南満州鉄道株式会社
すなわちそれは、中国での権益拡大を狙った満州国の建国でした。
国際連盟(世界平和の確保と国際協力の促進を目的とし設立された国際機関)は、その満州国を承認せず、日本は国際連盟を脱退するに至ります。
満州事変以降、日本国内では五・一五、二・二六の両事件を経て、軍部が政治に対する影響力を強め独裁体制を築き上げていきました。
軍部が独裁体制を築き上げた理由には、汚職と金権政治で堕落しきった政党政治への、民衆たちの不平不満が爆発寸前で、その民衆たちが政治よりも “軍部” に期待を寄せたのも必然的なことでした。
貧しくて、あまりにも貧しくて、欠食児童や娘の身売りなどのその時代背景は、まさに、この世の地獄でした。
但し、本当の地獄は云うまでもなく、その後に訪れる日本国民が巻き込まれた戦争です。
1937年、日中戦争が勃発すると、日本は戦線を拡大します。
泥沼の戦争へと突入していくのでした。
こうした中で、アメリカ、イギリスと日本の関係は崩壊し、日本はヒトラー主導のドイツへと歩み寄って行きます。
1939年9月、そのドイツが隣国のポーランドへ侵攻しました。
ポーランドと同盟を結んでいたイギリスやフランスは、ドイツと戦争になり、ヨーロッパで第二次世界対戦が開戦しました。
その当時日本は、対戦不加入方針をすぐさま発表するのですが、なぜならそれは、中国と戦争の真っ最中だったからです。
1940年、日本政府は、中国の国民政府に話し合いに応じてもらえず、日本の傀儡政府である南京政府(旺兆銘)を樹立します。
一方では、この頃、フランスがドイツに降伏した話を聞き、パリの凱旋門を堂々と行進するナチスの記録映画を見せられた陸軍は、ますますドイツに接近したいと考えるようになります。
そして、ドイツと仲の良い近衛文麿に期待が寄せられて、陸軍期待の近衛が、再び首相になりました。
第二次近衛文麿内閣の樹立です。
暗黒の時代へ 近衛文麿内閣の組閣
因みに、第一次近衛文麿内閣では、1938年4月
国家総動員法が制定されました。
以降、政府は議会の承認なしに、労働力・物資の統制や活用を勅命として実行できるようになりました。
街頭には…
欲しがりません、勝つまでは
贅沢は敵だ
といった看板を立てかけるなどして、国民に極端な節約を奨励しました。
第一次近衛文麿内閣の時代が、戦争へと傾斜して行った時代だということは否定できません。
そしてもう一つ・・・日本の運命を左右する重要なターニングポイント!!
このころ浮上してきたのが「南進論」です。
資源の少ない日本にとって、アジアの資源は大変魅力的なものでした。
つまりは、南進論とは、東南アジアにおけるオランダやフランスの植民地に進駐して、石油やゴムといった資源を奪い、それと同時に蒋介石(中国国民政府)への援助物資が運ばれる「援蒋ルート」を遮断するという戦略でした。
結果、同40年、北部仏印へと日本は進駐しました。
仏印とは、フランス領インドシナ半島のことで、これは現在のベトナム、ラオス、カンボジアを合わせた地域に相当します
東南アジアにおける西洋諸国の植民地化
さらに翌41年には、日ソ中立条約が結ばれました。
この条約は、相互に領土の保全及び不侵略を約束し、締約国の一方が、第三国から攻撃された場合は、他方は中立を維持することを約束したものです。
これによって南進政策が決定します。
実は、陸軍の統制派(二・二六事件以降の日本軍の中核)の中でも、北進論と南進論に大きく分かれていたのです。
南進論は、南(東南アジア)に進み、石油を確保する計画なのですが、アメリカやイギリスとは当然仲が悪くなります。
英米を敵に回すのが、南進論と言っていいでしょう。
そのために日本は、ドイツ、イタリアと、日独伊3国で同盟を結び、ソビエトと中立を保つこによって、都合4カ国で、アメリカやイギリスに決戦を挑むという考え方です。
一方、北進論は、アメリカやイギリスと戦うのは、20年も30年も早いという判断から、アメリカやイギリスから石油を購入して、北に進もうという主張です。
因みに、この当時ら石油の輸出の大部分をアメリカに依存していました。
これは反共産主義同盟を、ドイツ、イタリアやアメリカ、イギリスと組み、ソビエトを倒して東部の油田地帯を制圧し、石油を確保して国力を充実させた後に、アメリカやイギリスと戦おうという作戦。
いずれにしても、将来的には、アメリカやイギリスに決戦を挑むという主張。
北進論を考えていたのは石原莞爾であり、南進論をとっていたのが東条英機でした。
ここで、日本の命運の決定が成されるわけですが、南進政策の東条英機が陸軍の実権を握りました。
他方、世界情勢に目を向けると、同盟関係にあったドイツが、1941年、ソビエトに宣戦布告して独ソ戦争が始まったのです。
こうした世界情勢下で、この同じ年、南部仏印へと進駐が行われました。
陸軍の実権を握った東条英機の南進論が実行されてゆくのです。
北部仏印への進駐は、「援蒋ルートの遮断」が主な理由でしたが、今度の目的は、天然資源の獲得・・・
石油の確保です。
なぜなら石油がなければ、軍艦も戦闘機も戦車も動かせませんし、それでは国は成り立ちません。
これ言い換えれば、今後、戦争を継続し、維持して行くための手段と方法が無くなります。
と云うことは、ドイツに敗北したフランスの東アジアの権益をそのまま頂いてしまおう。
そうすれば、いちいちアメリカからの輸入に頼ることなく、日本は石油を確保することが出来るのです。
これまではアメリカも、“モンロー主義” というか、日本に対して、ある程度、干渉ぜすの立場にいたものが、一転、危機感を抱き、日本への干渉を強めてきました。
因みに、この当時の日本の石油量では、たとえアメリカやイギリスと戦争になっても、2年もたないとさえ言われていました。
この日本の動きに対して、アメリカ(America)は、イギリス(England)、中国(China)、オランダ(Dutch)と組んで、日本の封じ込めを強化しました 。
それを「ABCD包囲網」と呼び、南進阻止の共同戦線を敷いたのです
ABCD 包囲網
結果、日本はアメリカばかりではなく、
東南アジアで西洋諸国とも戦争へ
さらに、アメリカは、対日石油輸出を禁止し、さらに在米日本人の資産を凍結しました。
これにより、重要資源の多くを輸入に頼っていた日本が、干し上がるのも時間の問題となりました。
こちらも言い換えれば、この当時の日本は、軍需物資そのものが、アメリカに依存しなくてはならない状況にあったのです。
普通に考えれば、本当に当たり前のことなのですが、軍事物資のほとんどをアメリカに依存しておきながら、そのアメリカを怒らせるような行動をとることは、あまりにもお粗末すぎます。
この何の整合性もない、矛盾に満ち溢れた主張こそ、それが南進論なのですが、その立場にいた人間が、いったい誰なのかということが、非常に重要かつ問題なのです。
実は、東条英機が首相だった頃、戦争の天才と称された石原莞爾が、顔を合わせていたとされています。
この当時、石原は、陸軍のパワーバランスの憂き目にあい、ほぼリタイアの状態でしたが、その石原に東条は単刀直入に聞きます。
東条「日本が勝つための作戦を君から何か提示してほしい」
石原「君みたいな人が、戦争の指揮をとることが間違っている。すぐさま退陣すべきだ」
東条「それはできない。私は天皇に選ばれた首相をである」
石原「だったら何も話すことはない」
そういうと石原莞爾は去っていきました。
石原にはすでに、この先の日本の命運がどうなるのか、予測すらされていたのでしょう。
きっ張りと面と向かって…
やめろ!
と言っているわけですから。。
石原莞爾大佐時代
この後、東条首相主導のもと、日本は、対米戦争にあたって、東南アジアの資源を求める必要性をより強く意識するようになるのです。
さらにアメリカは、イギリスと大西洋憲章を結び、完全に日本に対する戦争体制を作ろうとしました。
ここ、非常に大きなポイントなのですが、つまり大西洋憲章とは、1941年8月、アメリカ大統領 フランクリン・ルーズベルトとイギリス首相チャーチルが、大西洋上で会見し発表した共同宣言です。
一方、こうした中で、日本側も、陸軍を説得して中国大陸からの一部撤兵を実現し、アメリカとの妥協を図ろうとしています。
しかしながら、陸軍の反対を受け実現しませんでした。
こうした流れの中で、近衛の跡を継ぎ、内閣を組閣したのが東条英機だったのです。
石原莞爾の言葉も、骨身にしみるというものです。
東条内閣は、戦争準備(決戦)と同時に、天皇に戦争回避の道を探るように示唆され、日米交渉を進める方針でスタートしました。
日本はなんとか、戦争を回避しようと、日米交渉をアメリカのハル国務長官と行います。
が、一方のアメリカも、交渉の終末を告げる…
「ハルノート」(Hull Note)
を突きつけてきたのです。
そこには…
・仏印や中国からの軍隊無条件撤退要求
・中国において蒋介石の国民党政府のみを承認
・日本、ドイツ、イタリアによる三国同盟の空文化
などが記されていました。
つまりこれは、速やかに、東南アジアから撤退し、中国を満州事変以前の状態に戻せという内容だったのです。
言い換えましょう…
東南アジアの資源を放棄し、満州国を消滅せよ!!
と。。
日本の軍部にとっては、とても容認できる内容ではありません。
日本側が、絶対に拒絶するであろう内容を突きつけ…
つまりは、「ハルノート」とは、日本にアメリカと戦わせるために、故意に、アメリカ側が日本を刺激するよう作成した、強硬な内容なもとなっていたのです。
戦後の東京裁判で、インド代表判事のパールは同じような最後通牒を受け取った場合…
「モナコ王国やルクセンブルク大公国でさえ、合衆国に対して、矛をとって立ち上がったであろう」
と日本の立場を擁護しています。
ハルノートを突きつけられた日本は、これを最後通牒と受け取り、1941年12月1日の御前会議で、対米開戦を正式に決定。
野村吉三郎・ハル・来栖三郎による最後の会談
かくして日本は、アメリカとの戦争を決意しました。
やがて…
1941年12月8日
まさに日本にとって運命の日です。
ご存知の通り、日本軍は真珠湾を攻撃するのですが、実は、この開戦当初から、おおっぴらにならないまでも、ある「陰謀説」が囁かれているのですが…
それは次回へと続きます…☆