歴史探偵が行く「坂本龍馬暗殺!?」中編 | 果てなき旅路

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あの時代・・・


誰が本当の王将だったのでしょうか??



前回からの続きとなりますが、前編の内容を大まかに分けると、坂本龍馬殺害犯に対して、以下のようなグループ分けが可能です。
 

① 新撰組、見廻組を囲いこんだ幕府説

② 中岡慎太郎、後藤象二郎の土佐藩説

③ 西郷どん率いる薩摩藩説

④ その他


以外と真相は、④に有るのかも知れませんが、今回は省略し、上記①~③について、私なりの殺害犯へと導く仮説を立てながら、より掘り下げた話をしたいと思います。


まずは坂本龍馬がその当時、どのような立場に置かれていたかを、今一度考えてみたいと思います。


あくまでも龍馬は、江戸幕府の倒幕を考えてはいましたが、あくまでも平和的に幕府を終わらせようとしており、徳川家を否定はしていません。

むしろ徳川家も一大名となり、新政権を支えていく立場として考えていました。


土佐藩を脱藩した一浪人の龍馬でしたが、幕臣の勝海舟や大久保一翁など、幕府の中枢にいた人物とも深い関わりがあり、幕府にとって危険な存在であるはずがありません。   

そこで・・・






① 新撰組、見廻組を囲いこんだ幕府説

そう考えると、徳川家を守ろうとした龍馬という存在を、幕府の支配下にある見廻組や新撰組が暗殺するというのは、少し無理が出て来るのではないでしょうか。 


近江屋での暗殺劇は、あまりにも派手な立ち回りであり、如何にも新撰組が好みそうではありますが、どうやらそれは、新撰組の仕業に見せかけた何者かの策略と考えた方が、私には自然に思えてならないのです。


と言うのも、龍馬が暗殺される間際には、龍馬と新撰組の土方歳三との間には、俺!お前!で話せるほどの間柄となり、むしろ土方などは、京都でフラフラしている龍馬に…

「命を狙われているのだから気を付けろ!」

と、龍馬を慮るほどでしたから・・・


それは小説などのフィクションだろうと言われれば否定はしませんが、新撰組ほどの組織力を持った手練等であれば、土方とは言わず、他の隊士達が龍馬を見つけ次第、不意打ちなどではなく、当然、斬りあいになっていたはず。。

しかも、龍馬が幕府にとって本当に危険な存在であれば、大政奉還を待たずに、とっくに新撰組から襲撃をされたはず・・・


実際に、龍馬自身、旅籠の寺田屋で襲撃をされて、命からがら逃げ延びましたが、その襲撃を実行したのは新撰組ではなく、幕府の幕吏ですから・・・おかげで龍馬は、ピストルで相手を撃ち倒してしまったために、お尋ね者に…。


そして、もう一つの警察組織・京都見廻組。


私も今回のブログを作成するにあたり、龍馬暗殺に関連した書物を読んだり、ネット検索したりしましたが、龍馬殺害犯は、諸説あるとは言え、ほぼ京都見廻組で間違いがない!ような論調のものが多く感じられました。

私が以前訪れたことのある、京都・霊山歴史館では、坂本龍馬を殺害したと言われる小太刀が展示されており、京都見廻組のあるメンバーが使い手でしたから・・・

もはや「犯人」と言っているようなものです。


が、やはり私には、龍馬殺害の方法が、あまりにもずさんで、見廻組の仕業には、とても思えないのです。


京都見廻組とは、完全に、殺害、暗殺の “プロ集団”・・・

殺しを請け負ったら、派手な立ち回りなどはせずに、静かに、それでいて確実に、相手を殺る集団です。


龍馬のような剣術の手練れであれば、尚更、近江屋を襲撃するようなことは、正反対の手段であり、方法であって、プロの仕事としては現実的ではありません。
 

見廻組のリーダー・佐々木只三郎は、幕末きっての殺し屋だったと言われています。 

尊王攘夷の志士・清河八郎の暗殺の依頼を受けるや、清河を一撃で斬り倒しました!!

因みに、清河とてかなりの剣術の使い手です。


そんな佐々木にとって、坂本龍馬や中岡慎太郎は!清河八郎以来の大物殺しの依頼だったのでしょうか??


尚、佐々木は、相手の油断をつくのを得意とされていますが、その剣の腕は確かで、取り分け小太刀の使い手としては、当時、日本一という声もありました。

殺しの美学など、あるのかどうかも分かりませんが、剣術の達人と名声のある者が、いくら自分が手を出さず、配下の者に命じたとしても、“佐々木只三郎” の名を汚すだけとしか思えません。 


確かに、この時、龍馬はお尋ね者ではありましたが、勝や大久保などを通して、龍馬が徳川家のために奔走していたことは、将軍慶喜をはじめその幕臣たちには、承知の事実だったはずです。

そんな龍馬を暗殺するなど、百害あって一利なし・・・

そんな筋道を、考えることも可能です。 


但し、坂本龍馬暗殺の実行犯は、学会というか学説では、「京都見廻組」として結論付かれているのが、世界の定説であって、それ以外の説は、もはや異端とされるのが現状のようです。


このように、いつも真実は闇の中へと、消し去られてゆく・・・等々は、今回の主題ではありませんので。。





そうなると逆に、坂本龍馬という存在がひどく煙たい存在は一体誰なのかということです。



② 中岡慎太郎、後藤象二郎の土佐藩説

陸援隊隊長・中岡慎太郎とは、龍馬と同じく薩長同盟に尽力し、薩摩の西郷隆盛に近い人物とされ、その調整役として活躍しました。

そのため、意見食い違いが激しくなった龍馬を疎ましく思った西郷どんが中岡に命じ、あるいは、中岡の意思として殺害を決行したのではと考えられています。


確かに酒の席・・・

龍馬を酔わせ、一瞬の隙をついて、一撃を浴びせることは可能だったと思いますが、近江屋にて、2階にいた龍馬たちの部屋が襲撃される以前に、1階で激しい物音や罵声が聞こえるほどの騒ぎがあり…

「ほたえな!(騒ぐな!)」

と一喝!?

したことは、記録として残るところであり、その直後に、刺客が突入して来たことを考えると・・・


むしろ、可能性があるのは、後藤象二郎が黒幕として、犯行に及んだとも考えられます。


龍馬が最後に基盤とした組織が海援隊です。

そして亀山社中を海援隊に改変できたのは、土佐の後藤象二郎と出会ってからです。

1866(慶応2)年、当時、龍馬は浪士結社・亀山社中を率いていましたが、亀山社中は経営難に陥り、解散の危機にありました。

そこに、資本協力の手を差し伸べたのが、後藤だったのです。

それは仇敵どうしの手打ちといっても良いものでした。


後藤は、かつて土佐藩参政だった吉田東洋の甥であり、東洋の薫陶を受けていました。

その東洋を暗殺したのは、龍馬の友・武市半平太率いる「土佐勤王党」です。


後藤にすれば、龍馬は師の仇敵の友人。

その後、前藩主・山内容堂が復権すると、後藤はその命で、土佐勤王党を弾圧、武市半平太を死に追いやりました。

言い換えれば、龍馬からすれば後藤は、旧友の敵とも言えました。


後藤は、龍馬に快く思われていないことは承知していましたが、それでもあえて後藤から龍馬に接近したのは、土佐藩を再び “雄藩” に押し上げたかったからです。


武市半平太の時代、土佐藩は尊王攘夷の雄藩と目されていましたが、その後、雄藩の座から滑り落ちて、諸藩は富国強兵を進め、そのトップにあったのは薩摩であり、数々の難局を乗り越えた長州でした。


因みに、後年、長州出身の木戸孝允が、後藤象二郎に対して…

「何故に、武市半平太を葬ったのか?」

と、問いただしたことがあるなど、なるほど、同じ尊王攘夷の志をもった木戸らしいエピソードがあるのです。


やがて、1867(慶応3)年、幕末のメークミラクルと呼ばれる「大政奉還」が、龍馬と後藤の工作によって、土佐は一気に幕末の主役にのし上がりました。

江戸幕府を終焉させ新しい国を作る!!


但し、後藤には、龍馬の “真意” が、未だ武力での討伐と考えた節があり土佐藩としては平和裏に政権交代を進めて行くため、中岡と共に暗殺したというのが、後藤象二郎黒幕説です。


これは、幕府と言うよりも、「徳川家」に対する恩・・・例え、幕府が崩壊しても、徳川家だけは守らなければならないと言う思惑が、他の大名家よりも俄然強いのが、土佐藩主・山内家の特長だと言えるのです。

どういう事なのでしょうか。。
 

それは、他藩とは明らかに違う、土佐藩特有の異様な身分制度に、伺うことが出来ます。


土佐藩では、上士(上級藩士)や下士(下級藩士)などの身分制度があり、坂本龍馬は、下士の中でも郷士と呼ばれる身分でした。

郷士は、基本的には在郷武士であり、土佐藩おいては、下士の上位に位置づけられていました。

関ヶ原の戦い以前の、旧領主である長宗我部氏遺臣の “一領具足” の系譜を引くものが多かったのです。


一領具足とは、長宗我部氏独自の下級武士軍団・・・

通常は、農民として田畑を耕しているのですが、戦時となると兵士として戦場を走りました。

名前の由来は、武士としての持ち物が「一領具足」、すなわち人揃いの武具しかなかったためと言われています。

この下級武士軍団は、長宗我部元親軍の主力として大いに活躍しました。


一方の上士とは、関ヶ原の戦いで東軍側についた山内一豊が、その功績を認められ土佐一国を与えられたのですが、主にそれ以前より、山内家の家臣として仕えた者たちにあたります。

後藤象二郎しかり、乾(板垣)退助しかり…


上士と郷士の差別化は徹底しており、下駄や日傘の使用は、上士しか許されていないなどその違いは多くありました。


因みに、下士には、白札、郷士、徒士、足軽などと細分化されています。

白札は、藩に対し功績を上げ、認められた者は郷士であっても、上士の扱いを受ける白札となる制度がありました。

まさに武市半平太がその身分にあたります。

が、所詮は郷士身分・・・上士たちからの風当たりは強く、その反動が、土佐における尊皇攘夷のカリスマ的立場に担がれてしまったと、言えるのではないでしょうか。


龍馬と武市は、幼い時からの顔見知りで、泣き虫だった幼少期の龍馬にとっては、何とも頼りになる兄のような存在だったと思います。


それが、尊皇攘夷の思想が、どんどん過激になり、龍馬には、遠い存在に変わってしまったのでしょう。


やがて袂を分け合い、武市は後藤の手によって死へと追いやられてしまった!?

後藤にとって武市とは、おじの吉田東洋を殺害され、家老級の上士以上に、存在感を見せ付けられていた訳ですから、面白いはずがありません。


現に武市は、当時、藩主だった山内容堂にも疎ましく思われており、確かにやり過ぎた感は否めないのですが・・・

繰り返しますが、その友が坂本龍馬だったのです。


龍馬の歴史上の功績で、最大のものとも言える「大政奉還」ですが、実際は、土佐藩の藩論に押し上げて前藩主・山内容堂を説得し、将軍・徳川慶喜に建白させたのが、参政という家老職にあった後藤象二郎です。


龍馬はあくまでも黒幕 ー て、言うか、龍馬の立場で、山内容堂に進言など出来ません  として動き、後藤に花を持たせたとも言えるでしょう。


しかしながら、そんな龍馬の後藤に対する思惑とは裏腹に、後藤が龍馬暗殺の黒幕と言うならば、大政奉還を自分の発案ということにして、柄を独り占めにしたかったことが動機とさえ言われています。

理想論のように語られていた大政奉還を、あの手この手を駆使して、実現に漕ぎつけたのが龍馬で、後藤は土佐藩を動かしたのは、紛れもない既成事実です。が、


やはり怨恨が、人をここまで狂わせてしまったとでも言うのでしょうか??



後藤象二郎 wikipediaより


龍馬は土佐藩の出身・・・

まさか自身のこんな近くに、黒幕がいたというインパクトの強い説です。


さて、次回はあの方が黒幕ですが、後編へと続きます…☆