歴史トラベラー「明治の奇跡 ~戦地の絆~ 」 | 果てなき旅路

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こんにちは。


これまで私の綴る「歴史トラベラー」では、通説とは違う、一味違った日本史を紹介してきました。

特に人物に至っては、伝承のような類いが多かったのですが、今回は戦渦を交えた、“男たちの友情”のお話です。




黒田清隆・・・どこかで聞いたことある名前ではないでしょうか?


前回の「歴史トラベラー」で取り上げた、“大日本帝国憲法” 発布時の内閣総理大臣です。

黒田は、西郷隆盛や大久保利通と同じく薩摩藩の出身です。


明治期においては、大久保の良き補佐官となり、幕末においては、西郷に気に入られ、薩摩側の密使として、長州藩との同盟を実現するため奔走しました。


やがて長州に赴いた際には、薩摩に恨みのある桂小五郎(後の木戸孝允)や高杉晋作らと命懸けで談判し、薩長連合の合意に意欲を燃やし続けた、“影の立役者”となりました。



ここでもう1人取り上げるのが・・・江戸幕府の幕臣・榎本武揚です。

榎本は、戊辰戦争において、最後まで新政府軍に戦いを挑んだ、旧幕府軍の総帥です。



榎本が留学から戻ると、幕府は滅亡の危機に瀕しており、鳥羽伏見の戦いで、もはや幕府軍の権威は失墜していました。


戦闘を放棄して江戸に戻った第15代将軍・德川慶喜は、恭順を意を示して蟄居の身となり、幕府側の勝海舟らの譲歩と、新政府による德川家の処分は、榎本にとっては受け入れるものではありませんでした。


憤激に堪えられなかった榎本は、開陽や回天といった軍艦を奪い、松平太郎らと共に品川から脱出・・・

蝦夷地(北海道)に向かう途中、船を修理するため仙台に立ち寄った時、大鳥圭介(幕臣)が土方歳三(新撰組)ら二千名を率いて仙台に逃れていたので、榎本らと合流することになりました。


やがて函館に赴いた榎本らは、上陸後には津軽兵らと戦い、勝利すると“五稜郭”を占領しました。

蝦夷地を平定後、榎本らはアメリカ合衆国に倣って、入札(投票)で総裁を決めることになり、その結果、榎本が総裁に選ばれ、松平太郎が副総裁になり、大鳥圭介は陸軍奉行に選ばれるなど、各人が役職に就きました。


蝦夷共和国を樹立したい榎本たちだったのですが、当然ながら、明治新政府はこれを認める訳がありません。


1868(明治2)年3月になると、黒田清隆・山田顯義・中牟田倉之助ら諸将が、薩長の兵を率いて現れ、こうして榎本と黒田の対決 = 五稜郭の戦いが開始されたのです。


が、函館に迎え撃つ幕臣たちの形勢は、明らかに不利であり、五稜郭に籠城したからといって、圧倒的火力と物量を誇る官軍(新政府軍)に勝つことは、ほぼ不可能な状況でした。


五稜郭に立て籠もる榎本らに対し、官軍は降伏を勧めることにしましたが、和議の申し出に榎本らは、蝦夷の地に独立政治圏を設けることを主張し、これを和議の条件として突きつけました。

当然ながら官軍は、こんな要求を飲めるはずもなく、榎本もそんな要求が通るはずはないことは承知の上で、残った者どもと玉粋を覚悟していました。


それでも官軍は、薩摩藩士を遣わし、榎本たちに降伏を促したにも関わらず、結局、徒労に終わるかと思われたのですが・・・


しかし!? 実はここで一転!!

どん底からドラマが始まったのです。



榎本武揚


最期を悟った榎本は、オランダ留学以来所蔵していた「萬国海律全書二巻」を兵火に焼くのはもったいないと考えました。


この蔵書は、フランス人・オルトランによって書かれたもので、大変貴重なものとされていました。

そこで、榎本はこの蔵書を薩摩藩士の手に渡し、「将来の日本の海軍発展のために利用してくれ」、と申し出たのでした。

官軍はこの寄贈に感謝して、五稜郭に酒を届けたという逸話が残っています。


榎本には賊軍と呼ばれても、その愛国心には、一点の曇りもなく、たとえ自分の命が消えても、祖国は永遠であることを確信していたのでしょう。 


やがて決死の覚悟を決めていた榎本でしたが、大鳥ら諸将を説き伏せて、降伏を申し出たのでした。


ここでようやく黒田は、榎本たちと談判をすることになるのですが、年少の者たちの儚い命を目の当たりにして、


「榎本~!」

と、叫んだのです。



黒田清隆


最後の戦闘を迎えつつあった榎本たちの軍勢には、年少の者も数多く含まれており、前途があるからと、帰順して命を全うせよと命じたのですが、その者たちは応じず残って戦う事を選んだと言われています。

自分たちの命を榎本たちに賭け、そんな彼らが理想とした世界の中で、生きていこうとした “熱い想い” が伝わってきますね。



官軍との談判を終えた後、榎本らは城に戻って諸隊を整列させ、訣別の辞を述べ、榎本武揚、大鳥圭介、松平太郎、荒井郁之助の四人は、城の門を出ました。


官軍の前に出頭した四人は、いずれも割腹する覚悟だったのですが、鄭重に扱われ東京へと護送されました。


蝦夷地からの凱旋後、榎本らの処分について、御前会議では大問題となり、木戸孝允や山県有朋らは、国賊なるが故に、処刑せねばならぬと主張したのですが、榎本の才能を惜しむ黒田は、断固として助命説を曲げませんでした。

それに五稜郭での榎本たちとの会見では、自分の首を賭けても助けると誓っていました。


だからこそ黒田は、御前会議で斬首刑が提議される中において、「榎本はすでに、新政府の軍門に降ったではないか!」と弁護し、榎本ほどの人材は容易に得難いと力説しました。


さらに「すべからく彼の命を助け、新政府に登用すべし」との意見を述べるとともに、黒田は「我が戦功に代えて死罪を赦してくれ!」と懇願をもしたのです。


まさに男黒田ここにあり!!


熱意に折れた西郷どんや大久保利通は、黒田に賛成し、ほどなくして、榎本一同は赦免されることとなりました。


何故にここまで黒田が、榎本たちの助命に奔走したのには、榎本たちの命を救いたかったのはもちろん、将来の日本の行く末を案じ、彼らの力が必要だったことは言うまでもありません。


黒田の助命活動に、榎本らは深く感謝し、後年、なんと!? 榎本の嗣子である武憲と、黒田の娘梅子は結婚・・・黒田と榎本の絆が、どれほど深いものだったのかを、知ることのできるエピソードです。




そしてこちらは、黒田内閣が組閣した際の大臣の一覧です。

薩長出身の大臣が多い中で、一人榎本だけが幕臣として、黒田内閣を支えました。


逓信大臣は、先の伊藤博文内閣からのスライド  ー 実は伊藤も榎本の能力を高く評価しており、黒田同様に助命活動に尽力  であり、農相や文相を兼任させるなど、黒田の榎本に対する信頼が大きかったことが伺えます。


後に榎本は、山県有朋内閣でも農相をつとめるなど、近代国家形成の礎として必要不可欠な存在となったのでした・・・山県は当初、榎本助命には大反対だったのですが (--;)





言うまでもなく、将来の日本に必要な逸材として、榎本の命を救った黒田の先見性には、間違いはありませんでした。


しかしながら、五稜郭の戦いに代表される戊辰戦争において、同じ血の流れる日本人同士が、争い、犠牲となったことも、付け加えておきましょう。



そういう意味において、将来の日本の行く末を案じ、祖国の永遠を願い、戦う中で芽生えた男たちの友情・・・明治とは“奇跡の時代”と言っても、言い過ぎではないのかも知れません。




最後までお付き合い頂き、ありがとうございました。

M.Tominaga